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INTRO

スタジアムを埋めた7万人の視線が、トラックの一点に注がれる。2001年世界陸上選手権、400mハードル決勝、世界一を競う男たちの中に一人の日本人がいた。為末大氏である。そのレースで為末氏は日本人として初めて、世界大会の男子トラック種目でメダルを獲得する。決して恵まれた体格ではなく、コーチにも頼らなかった為末氏が、世界で勝てた理由、それは競技に対する科学的な視点によるところが大きい。

引退後はスポーツはもとより、文化論からIoT(Internet of Things)、AI(人工知能)、遺伝子医療などの最先端のテクノロジーまで関心を持ち、各界の識者との対談本を出すなどその守備範囲は驚くほど幅広い。はたしてその独特の感性はどのように培われたのか。そして今、科学の未来について為末氏は何を思うのか。氏が館長を務める新豊洲Brilliaランニングスタジアムで話を伺った。

なにげない風景から、
真実を導きだすホームズに憧れた。

当時、特に認識していたわけではないですが、科学的視点の原体験かな、と思うのは、子どもの頃に大好きだった「シャーロック・ホームズ」のワンシーンです。ホームズが、ある人が着ていた服の袖のわずかな汚れを見逃さず、その人の素性を言い当てる場面に、新鮮な驚きを感じたんです。みんなと同じ情景を見ているはずなのに、ホームズだけが真実を導きだす。ホームズと他の人の違いは一体なんだろう、と思うと、得た情報をいかに編集し仮説を立てていくか、という情報処理のセンスなのではないか、と。
それからというもの、世の中の出来事を自分なりの視点で切り取って考えられる、名編集者みたいな人になりたい、と思うようになりました。

もっと速く走りたい…!

そのためにはどうすればよいのか?

中学校に入ると、僕の生活は陸上競技を中心に回り始めます。一方で授業はあまり熱心ではなく…。そんな僕に「どうせ授業を受ける気がないなら、これを読んでおけ」と先生から渡されたのが、運動力学の視点から陸上競技の動きを解説した入門書でした。ハードルを飛び越えるときに手の動きはどう作用しているのか、といったことが書いてあって、読んでいるうちに「動きの意味」そのものに関心が向くようになりました。当時の僕の目標は、100メートルを10秒6で走ること。そのためにはどうするべきか。力学的な視点から、地面にどれだけの力を加えればよいのかを、ノートに書いてひたすら計算したりしていましたね。理系の勉強は得意ではなかったけれど、やりたいことを起点に周囲の現象の「不思議」を読み解き、空想を膨らましていくのがとても楽しかったのです。

答えを探し続けた先に、
科学の領域が広がっていた。

高校卒業後、僕は専属のコーチに付いたことがありません。もしかしたらコーチがいた方が近道だったのかもしれない。だけど、自分自身で考え、答えを出していきたかったんです。自分なりに突き詰めた練習法で競技に取り組みたいと考えていました。
目標はただ一つ。「社会にインパクトを与える走り」を実現すること。
では、世界で勝つためには、どうすればよいのか―。
ひたすら答えを探していった先に、バイオメカニクスや体の解剖学、体のエネルギーの研究、そして人間心理などの科学領域が広がっていました。
自分自身を知るために可能な限りのデータも取りました。当時、赤羽(東京都北区)にできたばかりの国立スポーツ科学センターで、血液分析やモーションキャプチャーを撮ってもらってフォームを分析し、地面反力*も計測しました。オリンピックのメダリストたちのデータを調べ、メダル獲得率の高いハードルの跳び方を研究したこともあります。大会前のトレーニングから大会中のコンディショニング、本番前の気持ちの高め方など、結果が出るまでに絡む数多くの変数の中で、パフォーマンスを決定的に左右する要因を突き止めたかったんです。

*地面反力:地面に接したときの地面からの反発力。

限界を決めているのは、自分自身かもしれない。

現役終盤になると「人間の限界」は何によって決まるのだろう、ということを考えるようになりました。「自分が持っている可能性をどこまで追求できるか」というのがテーマになっていったんです。身体的に無理ができなくなった分、さまざまな本を読み、情報収集に励みました。結果、思い至ったのは「自分の限界を決めているのは自分の心なんじゃないか」ということです。
実際、レースの本番で力が出る、出ないは、心の持ちようが大きく影響します。分かりやすい現象でいうと、スポーツの世界の引退年齢が上がっていますよね。陸上選手なら、それまで25歳くらいで引退するのが当たり前だったのを、高野進さん*が31歳までひっぱった。それ以降はほとんどの人が30歳過ぎまで現役でいるようになりました。つまり、「そういうものだ」と思うと出来てしまう。
近頃、高齢者の定義を75歳にしよう、という話題がありましたが、本当にそうなったら、ただ制度が変わるだけでなく、人の意識も社会の有り様も変わっていくのではないでしょうか。そんな予感がします。

*高野進:1961年生まれ。ロサンゼルス(1984)、ソウル(1988)、バルセロナ(1992)と、陸上400m走でオリンピックに3大会連続で出場。バルセロナでは決勝に進出した。400m日本記録保持者。

科学技術は、人の可能性を広げてくれる。

肉体の限界の追究から心理の探求へと向かい、僕の関心の中心は今、「身体と心理の関係性」にあります。後になって、それは認知心理学の領域だよ、と人に教えられたのですが、できれば大学院まで行って極めたかったと思うほど、興味が尽きないんです。そこには、人間って何だろう、という根源的な問いがあります。
引退後、好奇心の赴くままにいろいろな人と会い、さまざまな話を聞いてきました。AI、医療、最先端の科学技術、自動運転など各界の第一人者の方々からお話を伺う中で、さらにこの先、テクノロジーと人間の領域はどう絡みあっていくのだろう、と考えさせられています。
今、僕は競技用義足の開発に携わっています。パラリンピックアスリート用の義足は高度な衝撃吸収の技術が使われていて進化しています。パラリンピックの選手たちが義足を使いこなし、その能力を磨いていったら、健常者の記録を超える日も遠くないかもしれません。コントロールされる側であるはずの「モノ」が、人のポテンシャルを引き出していく。考えてみればスマートフォンだって、記憶のアウトソーシングといえるでしょう。既に僕たちは高度な機器を使いこなし、能力を拡張している。科学は人の可能性を広げてくれるツールだと、僕は捉えています。
一方で科学の力をどう使えば、人は幸せになれるのか。例えば便利になりすぎて人が助け合うことを忘れてしまったら、科学の進歩って何だろうということになりますよね。僕たちは「社会と人はどうあるべきなのか」を問い続けていった上で、科学の方向性を決めていくことが必要なんじゃないかと思います。

PROFILE

為末 大

1978年広島県生まれ。陸上スプリントトラック種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者であり、男子400メートルハードルの日本記録保持者(2017年3月現在)。2001年エドモントン世界選手権および2005年ヘルシンキ世界選手権において、男子400メートルハードルで銅メダル。シドニー、アテネ、北京と3度のオリンピックに出場。2003年、プロに転向。2012年、25年間の現役生活から引退。現在は、スポーツに関する事業を請け負う株式会社侍を経営するほか、一般社団法人アスリートソサエティ(2010年設立)の代表理事を務める。主な著作に『走る哲学』(扶桑社新書 2012年)、『諦める力』(プレジデント社 2013年)など。

為末大・侍オフィシャルサイト http://tamesue.jp/

※本文中の情報は、2017年3月当時のものです