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日立ハイテク

分析化学と最先端医療をつなぐ機能性高分子の創出

~分離のサイエンスとテクノロジーで次世代の医療に貢献する~

「SI NEWS Vol.57-2」において、「超高速HPLCを用いた医薬品配合剤の複数成分同時迅速分析法の開発」と題し、ひとつの薬剤に2種類以上の薬効成分を含む配合剤の成分分析法について寄稿してくださった慶應義塾大学の金澤秀子先生。
明日の医療のあり方に関わる先進的な研究についてお話をうかがうため、芝共立キャンパスにある研究室を訪ねました。

慶應義塾大学薬学部 創薬物理化学講座 教授
金澤 秀子

慶應義塾大学薬学部 創薬物理化学講座 教授 金澤 秀子

環境に恵まれた研究者としてのスタート

知の仕事の現場に、学術分野の境界線が引かれるのは、ある種の利便性や分かりやすさのためであり、科学的探究の最前線に立つ研究者たちは、学問体系の枠を縦横無尽に超えて、新たな地平を切り拓いてゆく。
物理化学的アプローチによる幅広い薬剤の研究、クロマトグラフィーを中心とした分析化学の探究、そして機能性高分子の設計と合成。医・工・薬のフィールドをダイナミックに横断する金澤秀子氏の研究活動は、細分化された学問分野では対応できない、ライフサイエンスの課題と知見の広がりに応えるものだ。
東京医科歯科大学医学部の研究室で、薬剤耐性プラスミドに関する卒論研究を行い、日本電信電話公社(現NTT)の医用情報研究所に入るも、「研究能力の不足を痛感した」という金澤氏であったが、共立薬科大学大学院薬学研究科にて博士号を取得。その後、東京大学生産技術研究所(東大生研)でさらなるリサーチの機会を得る。

「研究環境に恵まれ、いろんな場面でいい巡り会いをしたのが、今に至るきっかけだと思っています」と語るように、東大生研を介して、再生医療の第一人者、東京女子医科大学の岡野光夫教授と出会ったことが、薬学系ではあまり行われていない機能性高分子の合成、さらには革新的な温度応答性クロマトグラフィー開発につながる。

機能性高分子の分離システムへの応用に挑む

「機能性高分子は、例えば熱や光などの物理的な刺激、あるいはpHなどの化学的な刺激に応答して、その構造や性質を変化させる高分子で、それ自体がとてもユニークで興味深いんです」

機能性高分子の中でも、広く用いられている温度応答性高分子Poly(Nisopropylacrylamide)(PNIPAAm)は、外部からの温度刺激に対し、32°C付近の下限臨界溶解温度よりも高い温度では、ポリマー鎖が凝集して水に溶けず白濁して見える。逆に、より低い温度ではポリマー鎖が水分子を結合し、溶解して透明になるという可逆的な相転移現象を示す。さまざまな研究者が、この高分子自身の刺激応答性の応用に取り組み、日本では1990年に岡野氏らが世界に先駆けて「細胞シート工学」というコンセプトを提案。PNIPAAmを培養皿表面に固定し、温度変化に応じて表面が疎水性から親水性になる相変化によって、タンパク質分解酵素を用いずに、培養した細胞をシート状のまま剥離することに成功した。
「培養皿の表面が親水性・疎水性に変化するのだったら、クロマトグラフィーの充填剤の表面だって親水性・疎水性になり、それで物質を分けることができるのではと思ったんですね」
東大生研時代、多孔質ガラスを使用した高速液体クロマトグラフィーの充填剤の開発研究と生薬成分の分析を行っていた金澤氏は、それまでほとんど実用化の報告がなかった、機能性高分子の分離システムへの応用を着想する。

「分ける」技術の革新、温度応答性クロマトグラフィー

クロマトグラフィーは、測定対象となる試料を移動相の流れに乗せてカラムを通過させ、固定相(カラム内の充填剤)と試料との相互作用の差を利用して、サンプル成分を分離・検出する。従来の液体クロマトグラフィーの概念では、分配や吸着といった相互作用の大小、物質の分離選択性のコントロールは、塩類やメタノール、アセトニトリルなどの有機溶媒を含む液体の移動相の側で行われ、分離の最適化のためには、移動相の組成を考える必要がある。それに対し金澤氏は、移動相組成の変化ではなく、機能性高分子を用いた固定相表面の大きな変化によって、分離を最適化するというまったく新しいコンセプトを形にした。
「機能性高分子を固体の表面にくっつけることで、固体の表面の性質が変わるんです。例えば水に濡れるような親水性の表面が、外部からの温度刺激によって、水をはじくような表面になる。親水・疎水が本当にわずかの温度変化で変わるんですね。そうすると、移動相には有機溶媒などを入れなくても、固体の表面の性質が変わるので、そこにいろんな物質がくっついたり離れたりすることで分離していけますから、ここは水でもいいんじゃないかなと。一番簡単な水を使って、温度応答性クロマトグラフィーというのを開発したわけです」


金澤氏らが実現した新たな分離システムは、2000年にアメリカ化学会(American Chemical Society)のジャーナル Analytical Chemistryの表紙に掲載され、国内外で高い評価を集める。有機溶媒や移動相の調整を必要としない温度応答性クロマトグラフィーは、環境負荷を低減するグリーンな分離システムと言える。それだけではない。従来のクロマトグラフィーで危惧された、有機溶媒の添加によるタンパク質の変性や生理活性物質の失活を防ぐことができ、ポストゲノム時代の発現タンパク質の分離技術への応用など、その可能性はさらに広がる。
「有機溶媒などの濃度をまったく変えずに、いろんな分離モードをつくることができるので、それを今までクロマトグラフィーが使用されていないような分野にも使っていきたいなと考えています。例えば、これから再生医療で、細胞治療などが日常的に行なわれるようになってきた場合、その品質保証というのはどのようにやっていくのか。低分子とは異なり、タンパク質や細胞はデリケートでもあるし、それぞれ特徴があって、単純なモードでは分離できないと思いますが、高分子をうまくデザインすることで、既に実績のあるタンパク質に加えて核酸医薬や細胞なども分離できるようにしていきたいと考えています」

機能性高分子の可能性を追究する

カラムの中の目的の場所に物質を送り込み、外部の刺激や温度によって、「物質とのインタラクションをコントロールする」。機能性高分子を用いたクロマトグラフィーのコンセプトは、体の特定の部位に医薬品を選択的に届けるドラッグデリバリーシステム(DSS)の研究にも共通する。
「ナノ粒子に機能性ポリマーをつけて、体の中をめぐらせ、相互作用をコントロールして、がん細胞など特定の目的のところに行かせるという技術にも使おうとしているんですね。私の中ではパラレルに進行していますが、やはり体の中に使おうとするとよりハードルが高いので、今はそちらにも力を入れているというところです」
がん治療への応用を目的とした金澤氏らのDDSでは、病気の原因遺伝子に直接作用する核酸医薬を、温度応答性高分子で覆ったナノサイズのカプセル(ナノキャリア)に封入。ナノキャリアが患部に到達後、外部からその部位の温度を上げると、核酸医薬が放出される。培養細胞を用いた基礎実験では、血中を移動する間に壊れやすい核酸医薬が、効率的にがん細胞に取り込まれることが確認された。

生体に学ぶ、治療と診断の新展開

ウイルスは、生体内で安定して存在するために、自身の遺伝子をナノサイズのカプセルに格納した状態で体内を移動する。人間は目的の場所(疾患部位)にピンポイントで薬もしくは遺伝子を届けるために、ウイルスと同様のカプセル、ナノキャリアを生み出し、温度応答性高分子を用いて薬物放出を制御する。
「ウイルスをはじめ、生物はものすごい機能を持っているんですね。我々の体は非常に精巧にできているので、やはり生体模倣、バイオミメティクスというのはものすごく興味深いです」
外部環境の変化を的確にとらえて、鋭敏に反応する生体の形状や機能。それらを模倣し、人工の材料に与える試みが、機能性高分子の合成やDDS の開発につながっている。さらに、狙った細胞に薬を届けるために設計されるバイオミミックな機能性ポリマーを基盤に、狙った細胞を光らせることができる蛍光プローブが開発される。環境応答性高分子を用いた蛍光プローブは、生体内の現象をリアルタイムで可視化するバイオイメージング技術として期待される。

「蛍光物質というのは、周囲の環境に影響を受けて、光ったり消光したりするので、機能性ポリマーと組み合わせたら、おもしろいことができると以前から考えていました。DDSを開発していく中で、ポリマーに蛍光分子をつけたことで、pH応答性や温度応答性といったポリマーの性質をダイレクトに活かすイメージングができます。例えば、がんの周りのpHは正常の場所よりも少し低いことが知られているので、がん細胞だけを光らせるようなイメージングにpH応答性は使えるんですね」

1000分の1の可能性にかける研究者の夢

生体の優れた機能に"まねび"、刺激応答性ポリマーの合成研究を発展させた金澤氏は、新たな分離システムや、治療と診断に貢献する技術を構築してきた。画期的な分離方法の真価が、一般ユーザーに実感されるためには、日立ハイテクをはじめとする分析機器メーカーのハード面での協力が必要となる。
「液体クロマトグラフィーでは、移動相の有機溶媒濃度のほうが、温度の効果よりもはるかに大きかったがために、温度をモデュレートして分離選択性を制御することはなかったんです。やはりそういうことができる装置がないと、せっかくの私どもの新しい充填剤も世の中に広まっていかない。今、装置は日立さんに非常に性能のいいオーブンをつくっていただいて、それと組み合わせて、例えば前処理を非常に簡便に行なって、オンラインで血清中の薬物を分析できるようなシステムの構築を共同研究させていただいています」

慶應義塾大学で次世代の研究者の育成や、医・工・薬が連携した研究のための拠点づくりに取り組みながら、新たにクロマトグラフィー科学会の会長に就任し、多忙をきわめる金澤氏。何かを思いついたら「必ずやってみたくなる」というバイタリティーと飽くなき探究心が、その存在に独自の華やぎを醸し出す。
「「研究というのは100やって99どころか、もう1000やって999が失敗なんですよね。でもそこから1が生まれてくるから、ものすごく楽しくて、それは研究者になった人じゃないとわからないし、それが研究者をやめられないところです」
誰かひとりにしかできない研究に、科学の進歩を望むことはできない。どんなに卓越したものを発明したとしても、「誰も使えないもの、どこにも売っていないものだったら、絵に描いた餅じゃないですか。やはり皆さんに使っていただくということが、新しいものを開発した者としては一番の夢だと思っています」
研究への情熱を原動力に、金澤氏は夢に向かって歩み続ける。

(取材・文:石橋今日美)

編集後記

スギ花粉の舞うこの時期になると、毎年、自分の身体機能の精巧さに気付く。わずか30-40 µmの粒子に身体が反応し、ほぼ100%の正確さで不快な症状を引き起こす。これが自分の性格とは一致しないのが恨めしい。しかしそのシステマティックな連鎖を顕微鏡写真で見せられると妙に納得してしまうのだが、それは"見ること"で安心するという本能からだろう。医療の分野で加速するバイオイメージング技術は、治療の「見える化」によって、患者の闘病を後押しするものになってくれるはずだ。その道筋を実際に作っておられる金澤先生にお話を聞くことができ、また先生個人の華やかさともあいまって、憂鬱だった春の訪れが、爽やかな新しいスタートと感じられるようになった。

(取材:大塚智恵)

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