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日立ハイテク

生きている細胞を観察したい

~研究の原動力は豊かなアイデア~

顕微解剖学の研究に長年取り組まれ、日本顕微鏡学会会長も務められた牛木辰男先生。
2020 年2 月に新潟大学の学長に就任された牛木先生に、これまでの研究生活を振り返っていただき、同分野の進展と今後への期待をうかがいました。

新潟大学 学長
牛木 辰男

新潟大学 学長 牛木 辰男

恩師、藤田恒夫先生との出会い

牛木辰男氏の絵筆の力は、研究者のみならず、一般向けの雑誌や著書を通して多くの人に知られている。細胞のリアルなスケッチなのに、どこか暖かみが漂う不思議なタッチ。解剖学研究の道を歩むきっかけになった恩師、藤田恒夫氏との出会いも、絵を通じてのことだった。
高校時代はいつも美術室で絵を描いていたので、新潟大学の医学部への進学が決まったときは、同級生たちから「美大に行くのではなかったのか」と驚かれた。医学部に進学した理由は「生き物が好き」だったから。「生物が勉強できる理学部か医学部がいいと思った」という。当時、大学では2年間の教養課程(医学進学課程)があり、3年目から解剖学や生理学など専門課程の授業が始まった。このとき「組織学」の講義を担当していたのが藤田恒夫教授だった。藤田氏の講義は学生に人気があり、それも加わったのかもしれないが、細胞を顕微鏡で見るという世界に強い魅力を感じるようになった
一方、藤田氏は専門の学問と同じぐらい絵を描くことに強い情熱をもっており、東京の美術モデルクラブから毎月モデルを呼んで、学生や市民の人と一緒に裸婦デッサン会を開催したり、油絵を描く会を開いたりもしていた。やがて牛木氏も同級生に誘われてこうした会に参加するようになり、それがきっかけで藤田氏の研究室に出入りするようになる。またそこで、当時助教授だった小林繁氏(後に名古屋大学教授)にも強い感化を受けた。「両先生の学問と絵にかける情熱に引き込まれ、その流れで自然に研究室に入りました」。
藤田氏は、いろいろなことをマルチに手掛けるスケールの大きな学者であり、早朝に英独仏の「朝の輪読会」を開催するなど、研究室にはさまざまな学生が絵に限らず分野を超えて集っていたという。

『ミクロにひそむ不思議―電子顕微鏡で身近な世界を見る』 ( 岩波ジュニア新書) のために先生が描かれた挿し絵 電子顕微鏡で写し出された構造がフラワーガーデンのように描かれている
『ミクロにひそむ不思議―電子顕微鏡で身近な世界を見る』 ( 岩波ジュニア新書) のために先生が描かれた挿し絵
電子顕微鏡で写し出された構造がフラワーガーデンのように描かれている

日本の走査電子顕微鏡の黎明期

牛木氏が学部の学生として藤田氏の研究室に出入りを始めた1978 年ごろは、走査電子顕微鏡(SEM)による一定の成果がまとまりつつある時期だった。ところで、日本で初めてSEM を使って生物組織を撮影したのは鳥取大学の田中敬一氏で、ちょうどその10 年ほど前の1968 年のことである。眼の水晶体のレンズファイバーの写真だった。これは「世界的にもSEM で撮影された一番古い写真ではないか」と牛木氏は言う。透過電子顕微鏡(TEM)のように試料のレプリカを作成することなく、ミクロの世界をより生に近い状態で、直接立体的に観察することができた画期的な写真である。
その後まもなく田中敬一氏、徳永純一氏(九州歯科大学)、そして藤田恒夫氏の3人が「医学生物学のための走査電子顕微鏡シンポジウム」を立ち上げ、これが日本におけるSEM 研究の草分けとなる。
SEM は、発生させた電子をガス分子と衝突させずに試料に到達させる必要があるため、その内部は真空に近い。このため液体は存在できないから、通常は乾燥させた試料でなければ観察が難しい。レンズファイバーは乾燥に強かったためうまくいったのだが、うまく乾燥できない試料も多く、当初は「SEM ではサンマの干物を見ているようだ」という痛烈な批判もあったという。
これを解決した方法の1 つが「臨界点乾燥法」である。もともとはTEM 用に考案されたものだったが、SEM に応用した論文が研究会で話題になり、それをもとに、田中氏が町工場に依頼して自作した。チャンバーに入れたドライアイスが液体になってから、さらに温度と圧力をかけて気体にするという工程があり、最初はチャンバーの爆発を恐れて遠巻きに見守りながらおそるおそる実験を行ったという。しかし、この乾燥器のおかげで、細胞や組織がまるで生きているようにふっくらと見えるようになった。日立の臨界点乾燥機「HCP-1」はこの成果をもとに作られた。
1972 年に、より分解能の高い電界放出形走査電子顕微鏡(FE-SEM)「HFS-2」が日立から発売され、その本格的な活用が始まった。藤田氏のもっとも著名なヒトの脾臓の論文は、この顕微鏡を使って1974 年に出されたものだ。
その後、SEM による成果は着々と積み重ねられ、1980年には田中氏と藤田氏が中心となり、日本で初めてSEMの国際シンポジウムが京都で開催される。これには世界の主要なSEM 研究者たちが参加し、一方で日本のSEM 研究の高さを世界に示す貴重な機会となった。牛木氏はまだ医学部の学生だったが、その手伝いをすることになり、海外の参加者のコングレスツアーなどにも加わらせてもらった。「細胞と組織の精緻な立体画で知られる、尊敬するローザンヌ大学のクルスティチ教授にも、このとき初めてお会いしました。一流の研究者たちの姿を垣間見ることができたことも、この道に進むきっかけの一つになったのかもしれません」

コラーゲンだけを確実に溶かすことができるKOH 法を発明

1982 年に大学院に進んだ牛木氏は、藤田氏の研究室、すなわち「第三解剖教室」で研究を始める。この研究室は「電子顕微鏡の研究と教育」のために開設されたもので、すでに設置されていたTEM と、藤田氏が導入したSEM による研究が混在していた。研究室に入ったころは「TEM の『フィラメント交換と分解掃除』が私の仕事のテーマでした」と牛木氏は笑う。
上述のように、SEM を使った第一世代の研究はこのときすでにほぼ成し遂げられていた。田中氏はなお、標本の作製が困難な、細胞の内部構造観察などに取り組んでいたが、藤田氏はSEM の研究よりは内分泌細胞やパラニューロンの研究などにシフトしていく時期でもあった。
たとえば細胞の内部構造観察は難しいテーマだ。ただ細胞を割っただけでは何も見えないため、必要のないものを除去したり、見たい構造だけを目立たせる工夫が必要である。細胞内の構造観察のために、オスミウム酸で細胞内の一部のタンパク質を溶かして膜構造だけをあらわにする方法は、1982 年ごろ、田中氏の研究室で偶然に発見されたものだという。
当時は、細胞以外でも、組織の内部構造を観察するために、さまざまな消化法が用いられ始めていた。牛木氏は大学院では、リンパ球が詰まった胸腺の構造のSEM の観察を行っていたが、その後、助手として赴いた岩手医科大学では、コラーゲン線維の藪に埋まった末梢神経系のさまざまな構造について、消化法をもちいてSEM 観察することがテーマとなった。
神経線維を包むコラーゲン成分を取り除くのは意外に難しかった。当時はコラーゲン成分を選択的に溶かすために「塩酸・コラゲナーゼ法」が用いられていたが、牛木氏はさまざまな方法を試し、水酸化カリウム(KOH)によりほかの組織を傷めることなく、コラーゲン成分だけを溶かすことに成功する。これは成功率の高い優れた方法で、「KOH法」として広く使われるようになった。
その後助教授として移った北海道大学では、こうした消化法を発展させて、骨細胞や破骨細胞を始めとした多様な組織のSEM 観察をテーマに取り組んだ。たとえば、コラーゲン線維とカルシウム塩の中に埋もれている骨細胞は、KOH 法でコラーゲンを溶かしただけでは観察できない。光学顕微鏡の観察法をヒントにカルシウムキレート剤でカルシウム塩を溶かした後にKOH 法を試してみたところ、これもきれいに観察することに成功した。

標本を固定した後にアルカリや酸、酵素を用いてコラーゲン成分を溶かし、細胞成分だけ残す一連の方法

原子間力顕微鏡で水中での撮影に挑戦

このような一連の手法で、SEM による細胞・組織の立体微細構造解析を行う研究を軌道に乗せた牛木氏は、さらに可能性を求めて、新しい原子間力顕微鏡(AFM)の活用を始める。
この顕微鏡の原型は1982 年、ゲルト・ビーニッヒ(G.Binnig) とハインリッヒ・ローラー(H. Rohrer) によって作り出された走査型トンネル顕微鏡(STM)である。金属の探針を0.1 ナノメートル程度の距離で金属に近接させて電圧をかけると、トンネル電流が飛びだす。その電流量をモニターして探針を走査することで、金属表面の形状像をつくる。分解能が高く原子レベルの立体像が撮れることから話題になった。
その後、トンネル電流の代わりに、標本と針との間のファンデルワールス力(原子間力)を用いることで、金属以外の表面形状を取得できるAFM が1985 年に開発される(以後、このような探針を走査する一連の形式のものを走査プローブ顕微鏡(SPM)と呼ぶようになる)。牛木氏は分解能の高さもさることながら、試料を乾燥させずに観察できるこの方法に注目していたところ、1990 年ごろに濡れた状態の赤血球のAFM 観察に成功した論文が発表された。
「水中の生きている状態で、SEM に匹敵する3 次元的な像を撮る」、その夢が叶うかもしれない。牛木氏は大学に働きかけていち早くAFM を導入した。初めに試みたDNAの撮影は思いのほかうまくいき、意気揚々といよいよ細胞の観察に挑むことになった。ところが実際、それは簡単ではなかった。生きた細胞は、針で触られると逃げていく。固定した状態ではなんとか成功したものの、それでも針で引っ掻いたり押したりして形がゆがむなど、なかなか思ったような画像は撮れなかった。

原子間力顕微鏡で水中での撮影に挑戦

FE-SEM による新たな成果と走査型イオン伝導顕微鏡の成功

その後1995 年には、定年となった藤田氏の後任人事で、新潟大学医学部の顕微解剖学分野に教授として戻ることに なる。これまでとは違い、高分解能のFE-SEM を自由に使うことができる環境を手に入れ、牛木氏はSEM とSPM とを研究の両輪として進めることになる。
大学院のときに顕微鏡の「分解掃除」をしていたおかげで、SEM の構造と特徴は、すみずみまで手に取るようにわかっている。その能力を最大限に発揮させる技術とともに、使い方についてのアイデアも豊富にもっていた。実は大学院生のときも、いち早く反射電子の活用に着目し、細胞を重金属で染色して反射電子で見るというアイデアを使って肝臓の中の伊東細胞の脂肪滴の観察に成功し、論文を書いている。
顕微鏡を駆使する研究にはメーカーの協力が必要不可欠だが、牛木氏は大学院でメーカーとの共同研究を行って以来、注目される存在だった。教授になってからは、現在の日立ハイテク(当時の組織では日立サイエンスシステムズ)などから一層の協力を得て、低真空SEM の検出器改良に始まり、FE-SEM と低真空SEM を組み合わせ、コーティングせずに生きたままの植物細胞を観察するなど、それまで温めてきたアイデアを次々に実現させていく。「技術者の方々のみならず、社長とも直接研究ベースの話をさせていただき、非常に高いレベルで協力をしていただきました。夕方打ち合わせをしたことが、翌日の朝には形になっていることもありましたね。おかげでSEM の研究は、私の新潟大学における仕事の1 つの柱となりました」。
一方で北海道大学時代から手掛けていたAFM の研究はその特徴を生かして、コラーゲンや染色体の構造解析に発展していたが、1998 年のある日、英国インペリアル・カレッジ・ロンドンのユーリー・コルチェフ博士による走査型イオン伝導顕微鏡(SICM)の論文を目にする。それは針の代わりに電解質溶液で満たされたガラスピペットを使うものだった。ピペット内部にある電極と試料を入れてシャーレの中の電極との間に電圧をかけ、そこに流れるイオン電流を測定して可視化するもので、実際に液中での細胞表面の写真が掲載されており、その像はSEM 像とよく似たものだった。
針を使わないこの方法に確信をもった牛木氏は、SPMの専門家である静岡大学工学部の岩田太教授を誘って、コルチェフ博士に会いに行く。そこで液中での内耳の有毛細胞の、SEM とよく似たきれいな写真を目にした二人は、帰国後、さっそくイオン伝導顕微鏡の製作に取り掛かる。しかし原理は簡単で設計図は間違っていないはずなのに、技術的な細かい問題点がクリアできない。そうこうするうちに海外のメーカーがイオン伝導顕微鏡のついたAFM を発売し、その利用が可能となった。その装置を使用した経験を、開発中の顕微鏡の改善につなげ、牛木氏はついに念願の水中の細胞と組織の撮影に成功する。「ようやくSEMのような立体像が、水の中で撮れるようになった。ここまで20 年もかかりましたね(笑)」

FE-SEM による新たな成果と走査型イオン伝導顕微鏡の成功

アイデアは融合から生まれる

顕微鏡は光学顕微鏡から始まり、電子顕微鏡、プローブ顕微鏡、さらには超解像顕微鏡など、分解能を高める方向で発展してきた。けれども分解能の高い顕微鏡が1台あればよいものではなく、それぞれの顕微鏡の個性を生かして相補的に活用することが必要だと牛木氏は言う。
そのためには装置をよく知っていることが重要だ。「装置とうまくコラボしながらその最大限の力を引き出して、面白いものを見出せたらいいですね」。必ずしも恵まれた研究環境ばかりではなかったが、そこにあるものを100%を生かし、さらに工夫することによって成果を重ねてきた。SEM にもSPM にも、まだまだ多くの可能性があると牛木氏は考えている。
牛木氏の豊かなアイデアはどこから生まれてくるのだろう。「いろいろな人たちが集まって、知恵を融合させていくことが大切ですね。お互いが歩み寄ることで、新しいものや今まで見落としていたものが見えてくると思うのです。どんな困難な問題も、アイデアで超えられることが少なくないはず」。
牛木氏が第58 代会長を務めた70 年の歴史をもつ日本顕微鏡学会は、発足当時から生物分野と工学分野の両方の研究者が参加する稀有な学会だ。研究領域が学際的になっている今日、分野を超えた協力や共同研究がより一層必要とされており、「互いに触発されながら興味をもってコラボレーションできる場」として重要な役割を担っている。
新潟大学長としての職務も、「大変ではあるが、面白い時期に任せられた」と前向きに捉える。新潟大学は、明治時代に官立医学専門学校として発足した歴史ある大学であり、現在は、日本でヒトの脳を唯一扱う「脳研究所」や、積雪などの災害を扱う「災害・復興科学研究所」を附置研究所として擁する。このような従来の新潟大学の特徴を生かしながら、さらに新潟ならではの地域性を生かした大学の未来像を描くことが必要だという。たとえば「日本酒学」の創設はその1 つで、サイエンスのみならず、経済学や文化面も融合させた総合的な学問領域を作り上げようとしている。フランスのボルドー大学との共同学位もこれからスタートし、これまで日本の文化だった日本酒を新たなステージに導く狙いだ。
最後に、日立ハイテクへの要望を尋ねてみた。「光学顕微鏡のように簡単に使える、水筒くらいの大きさのSEMが欲しいですね。スマートフォンなどで画像が見られ、富士山の頂上で『ちょっと実験したくなった』と言って取り出せたらいいな」。少年のような笑顔を見せた。

(インタビュー・文:平塚 裕子)

アイデアは融合から生まれる

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