近年、自動車の世界ではEVシフトなどが進み、タイヤに求められる性能もより高度化しています。新たに有力な材料を開発するためには、経験や属人的なスキルに基づく従来からの手法だけでなく、良質なデータから高速で材料開発を行うMI(マテリアルズ・インフォマティクス)の活用が欠かせません。旭化成株式会社は、MIの可能性にいち早く着目し、製品化への展開を推進しています。MI活用の大きな一歩になった合成ゴムの開発で注目される同社の合成ゴム技術開発部を訪問し、その経緯や開発における分析装置の役割などについて井上芳久 主幹研究員に話を伺いました。
旭化成株式会社
環境ソリューション事業本部
エラストマー事業部
合成ゴム技術開発部
主幹研究員
井上 芳久 博士(工学)
製品の機能は、材料が持つ特性によって大きく左右される。従来、良い特性の材料をつくるためには、研究者の知識と勘と経験によって成分の種類、構造などの組み合わせを考え、実証実験を行うという手法が一般的だった。ほぼ無限にある条件の組み合わせから正解を導くには何度も研究と実験を繰り返す必要があり、そのため新材料が製品として世に出るまでに、長い期間を要することは避けられない課題でもあった。
井上氏は次のように話す。
「私は現在合成ゴム技術開発部に所属し、タイヤ用合成ゴムの研究開発チームで、新しい材料の評価解析と技術サービスを担当しています。自動車タイヤ用の合成ゴムの開発も、以前は文字通りトライ&エラーの世界でした。作ってみて評価して、性能を満たしていればタイヤメーカーで評価を受け、その結果をフィードバックして改善し、評価する。その繰り返しのラリーをいかに速く回すかが競争優位に立つための鍵でした」
井上氏の言葉にあるように、開発現場においてスピードは大きな価値を持つ。社内に蓄積された経験やノウハウ、研究成果などを利用し、競争力のある素材をいかに短時間で開発することができるかは、つねに至上命題だった。しかし、すでに多くの素材が開発され実用化された今、より高性能で、要求される特性にマッチする合成ゴムを開発するのはコストがさらにかかり、時間も必要になっている。
そこで近年、材料開発の効率を一気に引き上げる手段として、これまでの計算シミュレーションや実験に加え、機械学習やデータマイニングなどといったAIが活用されるようになった。これがMIと呼ばれる手法だ。その進化によって、現在、材料の開発プロセスは劇的な変化を始めている。
[図]MIによるタイヤ性能の最適化
次世代のタイヤに求められている性能も高度化していると書いたが、タイヤ用合成ゴムには実際にどのような機能、性能を要求されているのか。
「これまでは低燃費性とウェットグリップ性能へのニーズが高かったですが、現在は、低燃費性と耐摩耗性へのニーズが高いです。最近は、電費という言葉も使われ始めていますが、EVやFCV(燃料電池車)などのいわゆる次世代車を想定したときには、タイヤの転がり抵抗を低減することはもちろん、耐摩耗性が一段と重要になると考えています」
EVやFCVは、電池を積載しているため、一般にガソリン車と比べ約2割程度重量が増すと言われている。重量増はタイヤの摩耗に影響するため、合成ゴムの原料であるポリマーの最適な分子設計や混練りなど高度な加工が必要とされる。
さらに、サステナブルな社会の実現に向けて、さまざまな国と地域での環境規制に対応するためにも耐摩耗性は外せない機能になっている。
例えば欧州。EUでは大気汚染への対策として自動車からの排出基準を設けており、現在のEuro 6から、Euro 7へと、さらに条件が厳しくなることがわかっている。従来の基準に比べ、非常に厳しい内容となっているためEU内でも賛否があるが、Euro 7では排出ガス以外に、ブレーキからの粒子状物質とタイヤからのマイクロプラスチック排出に規制がかかるとされている。この規制はEVにも適用され、加えてEVの搭載バッテリーについても交換頻度削減などを目標としているため、タイヤが省電費であることは環境対策としても必須の機能になる。
「企業のニーズだけでなく社会全体の仕組みが変わってきていることを実感しています。材料メーカーとしても、いかにサステナブルな社会の実現に貢献するか、つねに模索しなければなりません」
MIは、これまで膨大な時間とコストを要していた材料開発の現場に、劇的な高速化やコスト削減をもたらす。
「当社のMIを活用する取り組みは2019年頃から一気に加速しました。構造や物性の最適化を図るためデータベースを構築し、精度を高めて、すばやく製品をアウトプットできるようになっています。MIは最適化するためのツールであり、シミュレーションとは違います。目標とする材料に向かって、この機能とこの機能を最大化したい、その時のポリマー構造は?といったときに候補をいくつも出してくれます。そのステップが格段にスピードアップしました」
すでにMIを活用した合成ゴムの開発が行われており、新規のグレードとしてタイヤメーカーで採用されているそうだ。井上氏によると、その開発期間は従来に比べはるかに短く、それでいて性能はタイヤメーカーの要求を満たすものだという。新しい製品は、低燃費かつ耐摩耗性に優れ、雨天時など濡れた路面でのグリップも損なわない革新的な素材になった。
高度化するタイヤ用合成ゴムの研究開発において、分析装置はどのような役割を果たしているのだろうか。
「低燃費タイヤの進歩を支える代表的な技術としてシリカ配合があります。シリカを配合することによって、低燃費性とウェットグリップ性能を両立することができますが、そのためにはゴムとシリカの分散状態が非常に重要になります。そして、シリカの分散は耐摩耗性にも重要です」
MIで最適化された材料因子であっても、製品化に向けてのステップでは、やはり分析装置で実際の分散状態を確かめることは欠かせないと井上氏は言う。
「こうすれば低燃費性の向上とウェットグリップが両立し、耐摩耗性も向上できるとわかっても、あくまで仮説であり、電子顕微鏡などの分析装置で実際の姿を見て検証することは、これまで以上に大事です」
事例として提示いただいた画像にはゴム中のシリカがナノレベルで均一に分散されている様子が見てとれた。シリカとの親和性を高める工夫により、ゴム中にシリカがきれいに分散されることによって、低燃費性とウェットグリップ性能の向上という背反する性能が両立し、耐摩耗性も向上することができるのだという。
「ミクロの世界の話ですが、これが何万台、何千万台という自動車に適用されることになれば、地球規模の環境負荷を低減する効果は決して小さくはないでしょう」
製品の環境性能を含めて、顧客の要求はますます高度で複雑なものになっているが、時代が大きく動くときは、ソリューションによって新たな市場を拓くチャンスのときでもある。材料メーカーとして競争を優位に運ぶためにも、MIを駆使して研究開発の効率化・高速化を図ることは大きな意味を持つ。
一方で、MIの開発や実用化を進める上で、一般的に重要な課題となるのが人材育成だ。
MIの分野においては、材料に対する深い理解とデータサイエンスの知見の両方を兼ね備えた人材が求められる。合成ゴム技術開発部では、化学・材料分野の専門知識を持った研究者自らが情報科学を学び、自分たちでMIによる材料開発を行っている。旭化成がMI活用で成果を上げている理由の一つがここにある。
「やはりMIの条件などを設定するためには、人のノウハウと経験値が必要になります。研究者自身がMIを使いこなせるようになることは、見落としがちですが大事なポイントだと思っています」と井上氏。
MIは、人の能力を拡張してくれるものであり、もともと開発能力がある人が便利に活用しているからこそ、期待を超える成果につながっているとも言えるだろう。
将来、分析データとMIを活用することによって、どんな展望が開けるのかという問いを井上氏に投げかけたところ、しばらく考えたのちに次のように語った。
「今後EVやFCVがモビリティの主役になっても、すでにニーズとしてあった低燃費や耐摩耗性という方向性は継続しているわけです。しかし、次の次の世代の開発を考えるときには、これまでの延長線上にないような、飛躍した性能向上が必要になるはずです。私たちはそれを作り出さなければいけない。そのためにもっと多くのデータを蓄積しながら、MIとポリマー設計と分析とを連携させることで、イノベーションを生み出すことができると考えています」
SDGsの目標達成には、マテリアルの革新が不可欠であるとも言われている。日本が得意としてきた材料分野の研究開発が、産業の力になり、社会課題の解決に貢献していくことを期待して、今後も同社が生み出す新材料に注目したい。
取材後記
常識を塗り替えるようなイノベーションの可能性について聞いたとき、井上氏は「ある」と断言しました。井上氏はシリカを例に、こう説明してくれました。「タイヤのトレッド面(路面に設置する部分)の材料として、シリカが使用されるようになったのはおよそ30年前。それ以前は、カーボンブラックがメインで使われていましたが、転がり抵抗とウェットグリップの両立は難しかった。そこでミシュランがシリカを使うタイヤを開発し、タイヤの常識がガラッと変わりました」 同じように、歴史を変えるようなイノベーションが起きる日を楽しみに待ちながら、日立ハイテクの分析装置が開発の最前線に立つ人たちの力になれればと願っています。
( 取材・記事:山口としなり)