Evolution of Hitachi Amino Acid Analyzers―From the First in Asia to Chemical Heritage No. 066
伊藤 正人*1, 源 法雅*1, 井上 陽子*2
2024年3月、日本化学会は、835形日立高速アミノ酸分析計がアミノ酸分析計の初期からHPLC(High Performance Liquid Chromatography)機に至る技術の変遷を詳細に把握することのできる貴重な装置であり、日本に現存する最古のアミノ酸分析計として化学遺産(第066号)に認定した1)。835形は、日本分析化学会 液体クロマトグラフィー研究懇談会からも2020年、科学遺産第3号に認定されており、SI NEWSにその解説記事を載せた2)。本稿では日立アミノ酸分析計の進化を遡るため、少しカメラを引き、初期の装置から835形に至るまでの系統樹を眺めてみたい。
1958年、京都大学 理学部と日立製作所 多賀工場(日立市)との共同研究が始まった。1960年、我が国初の液体クロマトグラフKLF-1形を京都大学に納めた丁度その頃、アミノ酸分析計の開発も始まっていた。そして、多賀工場から新設の那珂工場(旧・勝田市=現・ひたちなか市)へ移転した1961年、最初のアミノ酸分析計KLA-1形が完成した。KLA-1形は試作機であったにもかかわらず、珍しい写真が残っていた(図1)。
図1 KLA-1形試作機
製品版であるKLA-2形日立アミノ酸分析計とそっくりである。
翌年の1962年、製品版のKLA-2形へすぐ発展した。このたび、日本化学会はKLA-2形をアジア初のアミノ酸分析計と認めた。外観はまるで間違い探しクイズのようにそっくりである(前稿2)図4のKLA-2形の写真を参照)。KLA-2形は、Moore 博士らの有名な論文3)をベースにして開発された4-7)。高度経済成長期に入った頃だったからであろうか、我が国のアミノ酸分析計はまずお手本を忠実に再現することから開発が始まったようである。Moore 博士の論文と同じ長さのガラス製カラムを2本装備した。いずれもガラス製なのでカラムの中が見えた。長いカラムは酸性・中性アミノ酸を分離する1.5 mのカラムである。気泡を抜けやすくするためにカラムを鉛直に立てることになり、装置は必然的にロッカーのように縦型に設計された。
カラムを2本用いることは高速化の工夫であった。最初に15 cmの短いカラムで塩基性アミノ酸を分離してから、長いカラムへ手動でつなぎ替えて溶離液も切り替える。こうすることにより反応系や検出系は同じ流路を利用できた。この高速化の工夫もありKLA-2形はそれまで1週間かかっていた分析時間を一挙に24時間以内に短縮してしまった4)(図2)。その進歩は、目の当たりにした人々を驚かせた。発売の翌年から輸出されたことからもそのインパクトの大きさがうかがえる。最初の輸出国が旧ソビエト連邦であったことは当時の時代背景を反映している。
図2 KLA-2形のクロマトグラム
横軸は保持容量(ml)。流量30 ml/時で保持時間に換算できる。
(S. I. NEWS, Vol. 5, No. 1(1962)より再掲載)
この時期はデータ処理装置がまだなかったので、ピーク面積はピークを三角形に近似して、ピーク幅に対応する底辺と高さを掛けて2で割って求めた。そして、ピーク面積の再現性を確認するためには相対標準偏差(%)を手動で計算していた。電卓のまだない時代である。2乗和を求めることまでは何とかできたとしても、平方根の計算は大変だったことであろう。1検体を測定するのに1日間かかっていたのだから、ピーク面積の再現性試験まで含めたら、据付け作業は1週間かそれ以上かかったそうである。当時はカラムの上端を開放してピペットで試料を滴下していたので、据付け者は装置につきっきりであった。試料注入やカラムのつなぎ替えのための踏み台も製品の付属品として納入された。さらに、据付け時にはカラムの充てん方法も顧客に説明していた。初期の装置にはオートサンプラーが付いていなかったのだけれども、グルタミン酸(Glu)のピーク面積再現性で1%が報告されているので、技量をもってすれば現在と同様の実力が既にあったことがわかる5)。
1964年、KLA-3形、1965年、KLA-3A形8)、1966年、KLA-3B形9)と毎年モデルチェンジを繰り返した(図3)。高速化や高分離化のため、カラム長さなどを最適化して、分析法は多様化していった。この頃は米国への輸出も始まり、アミノ酸分析計が急速に進歩する時期だったに違いない。また、今はアミノ酸をクロマトグラフィーにより分取して精製する用途はないが、当時はアミノ酸の調製装置LP-2形シリーズも開発されていた10)。
1971年発表のKLA-5形は背の高い床置き型の最終進化形である(図4)。標準的なカラムとして内径6 mm、長さ50 cmのカラムを用いて、分析時間は4時間まで短縮された。ちなみにKLA-2形のカラムの内径はMoore 博士の論文と同じ9 mmであり6)、KLA-5形でカラム内径を細くする意図は高感度化や試薬の消費量低減であった11)。
図3 KLA-3形日立アミノ酸分析計
旧ソビエト連邦、米国、中国などに輸出された。
図4 KLA-5形日立アミノ酸分析計
背の高い床置き型の最終版。
KLA-5形の最大の開発コンセプトは全自動化であった11,12)。操作者が装置に常時付いていなくとも、分析が連続的に実行できるようにまずオートサンプラーが搭載された。当時にできたことは、プログラムを穿孔した紙テープに記録する方式だった。その穴がどのタイミングでどこにあいているかを電気的な導通をもって金属製ドラムとブラシで刻々と読み出し、その時刻と穿孔位置に応じてリレーを動作させる、まるでオルゴールのような方式だった。この方式により、KLA-5形の頃には操作者が手動で行っていた溶離液の切替え、カラムの切替え、サンプリングの開始などの動作を紙テープが代行して命令できたわけである。
操作者は予め最大24個のサンプル管に測定用の試料をそれぞれ充填しておき、オートサンプラーに保管する。あとは紙テープに従ってターンテーブルが回転する。サンプル管は導入チューブに接続され、試料は一旦、導入チューブへ移動する。そして、溶離液を送液するポンプからカラムへの流路に導入チューブを割り込ませることにより、試料をカラムへ送り込んだ。導入チューブを介在させて、サンプル管と流路を分けることによりサンプル管を高圧下に置く必要がなくなる。また、サンプル管は500 μLの定容量コイルとして利用するだけではなく、溶離液に満たされたサンプル管にマイクロシリンジにより10 ~ 250 μLの任意の試料量を予め注入できる設計でもあった。
さらにKLA-5形にはJ221形積分器も採用された13)。まだコンピューターが世の中に普及する前なので、本積分器は現在のようなデジタル変換された信号値を数値演算する方式ではなかった。電気回路を用いて検出器からのアナログ信号を直接扱ったのである。検出信号の電圧を繰り返し周波数のパルスに変換するVFC(Voltage to Frequency Converter)回路が採用された。回路上でピークのスタート点とエンド点を検出して、回路でベースラインも決定して、スタート点とエンド点の間の信号値を電気回路で積算して、ピーク面積をプリンターに出力する。また、同時にピークの保持時間も見出すことができた。まさにアナログ回路技術の芸術品である。ピーク面積を求める手動計算を自動化できたのだから、それだけで当時としては実に画期的な機能であったであろう。手動計算との比較のうえ、その有用性も報告されている11)。なお、次に登場する835形のために、KLA-5形では既にシングルカラムによる分析法が準備されていた。
日本に現存する最古のアミノ酸分析計は茨城県ひたちなか市の日立ハイテクに保管されている。図5は本稿執筆のために、筆者と当時のエンジニアとが認定化学遺産066号といっしょに撮った写真である。
1977年発売の835形は1970年代の技術潮流に上手く乗った装置だったと言える14)。まず第一に液体クロマトグラフィーにはHPLCの大きな波が押し寄せた。象徴的に表現すれば、カラムがガラス製からステンレス鋼に置き換わった。これにより10 MPa(約100気圧)を超えるポンプの吐出圧力により強制的に溶離液をカラムに送り込むことができた。KLA-5形の分析時間が4時間だったものが、835形では1時間未満に縮まった。KLA-5形の充てん剤の粒子径が17 μmだったものが、835形で5 μmに微細化できたことが主要な理由である。シングルカラム分析法を採用するうえで、さらに高速化を実現するために物理学的にも化学的にもいくつものハードルを飛び越えている15)。HPLC化によりカラムの長さが25 cm以下になり、835形以降、背の高くない床置き型に高速アミノ酸分析計を設計することができるようになった。また、経済成長の影響であろうか、この頃から中国への輸出も増えてきた。
もう一つの大きな波はマイコンブームである。当時は洗濯機や炊飯器にまでマイクロコンピューターが搭載された。ちょうど今なら家電品に何でもAI(Artificial Intelligence)が搭載されるような流行である。KLA-5形では紙テープ方式のプログラマーや、積分器のような電気回路の芸術品のようなユニットを搭載していたが、全てマイコンに置き換わった。分析法のタイムプログラムは紙テープから銀行のキャッシュカードのような磁気媒体に取って替わった。約20成分のたんぱく質加水分解物法から、約40成分の生体液分析法へカード1枚を交換するだけでタイムプログラムを移行できたのである。
前述のJ221形積分器はマイコンのデータ処理装置へと置き換わった。デジタル処理は電気回路でアナログ信号を処理するものではないので複数の演算処理を実行してもSN比が劣化しない。従って、高精度にピーク面積の測定ができるようになった。また、ピークのスタート点、エンド点検知の閾値やベースライン決定法に関するパラメータの設定、および不分離ピークのピーク面積処理法、ノイズ計算などに多様な機能を持たせることができるようになった。また同時に各ピークの頂点を探し出し、保持時間の決定、ピーク高さの測定、各種定量計算法の選択などもデジタル処理で実行できたわけである16)。
何でもデジタルになったかと言えば、必ずしもそうでもない。ポンプは脈流のない送液が理想であり、保持時間の再現性を向上するためにKLA-3形の頃よりダブルピストン駆動式のポンプが採用されていた。835形ではさらに高性能化するために往復周期の短いシングルプランジャーポンプを開発したが、流量設定はまだツマミネジを回して固定するアナログ方式だった。従って、現在のように1つの分析工程内で流量を変更するような芸当はできなかったわけである。
前稿2)でも詳しく述べたように、835形の開発は今では想像もできないような正に昭和の一大プロジェクトだった。機械系、電気・電子系、マイコンのソフトウエア設計者、分析の専門家、および検査・製造部門から精鋭の技術者が選ばれた(図5)。そして、その開発責任者が故・鴈野重威博士であった。幸いなことに1,000台出荷記念式で挨拶する博士の写真も残っていた(図6)。プロジェクトを駆け抜けて、ニューネッシーのアミノ酸分析にたどり着いたことは期せずして舞い込んできた幸運な835形のデビュー劇であった1)。
図5 835形日立高速アミノ酸分析計、および開発者と著者
後列左から佐竹尋志氏(機械)、藤井芳雄氏(分析)、沼田昭氏(検査)。
前列左から源法雅、井上陽子、伊藤正人。
図6 1,000台出荷記念式と鴈野重威博士
製造現場での挨拶。
2019年、835形のユーザーに最新鋭機のLA8080高速アミノ酸分析計AminoSAAYA®を購入して頂いた17)。その時に譲り受けた835形(図5)が日立ハイテクに展示され、その結果、このたびの化学遺産として認定された。今見てきたようにKLA-1形の試作機から現在のLA8080までの中間点に835形は位置する18-20)。そして、その約60年間のパズルの何か1つのピースが違っていたらと考えるととても不思議であり、幸運であった。
835形には以上述べてきたように歴史的な価値があり、その現物が見られるのだから貴重である。LA8080も835形もアミノ酸分析の原理はMoore 博士3)からずっと共通である。本稿では835形から少しズームアウトして、最初の試作機KLA-1形からその歴史を観て来たわけだが、その間の進化がおよそ平坦だったとは言えないほどの技術革新が幾つも重なっていたことを共有頂けただろうか?
参考文献
著者紹介
*1 伊藤 正人, 源 法雅
(株)日立ハイテクサイエンス 分析システム第二設計部
**2 井上 陽子
(株)日立ハイテク 医用システム第二設計部
登録記事数 203件
まだまだあります。