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日立ハイテク

形を見ることの大切さは、これからも変わらない

~感染症研究における透過電子顕微鏡の優位性~

長年にわたり感染症研究の最前線で活躍され、とくにノロウイルス研究では日本における黎明期から取り組み、数々の成果を上げてこられた宇田川悦子先生。
『SI NEWS Vol.61-1』において、「ヒト由来ノロウイルスの現状と今後の課題」と題し、ノロウイルス研究の歴史とこれからの展望について寄稿してくださいました。
今回は、ご自身の研究と透過電子顕微鏡とのかかわり、これからの電子顕微鏡に期待することなどについて伺いました。

サイエンス・ラボ横浜 代表
国立感染症研究所 客員研究員
博士(医学)
宇田川 悦子

サイエンス・ラボ横浜 代表 国立感染症研究所 客員研究員 博士(医学) 宇田川 悦子

電子顕微鏡によるウイルス検出のはじまり

人から人へ、あるいは環境から人へと病原体がうつり、下痢や発熱をはじめとするさまざまな症状を引き起こす病気を感染症と総称する。病原体は、細菌、ウイルス、真菌などの微生物と寄生虫に大きく分けられ、それぞれ多くの種類がある。病原体の種類や罹患者の条件によって病態は異なり、感染してもほとんど症状が出ないことがある一方で、命にかかわるケースも数多い。目に見えない微生物が引き起こす病は、古くから人類を脅かし、時として発生する大流行は社会・経済活動にも打撃を与えてきた。
科学の発展に伴い、人類はそうした感染症の脅威を少しずつ克服してきた。しかし、そのレベルは国によって大きな差がある上に、先進国でもいまだに多く発生する感染症もある。その1つがロタウイルス、ノロウイルスなどによるウイルス性の下痢症だろう。下痢と嘔吐が主な症状だが、体力のない乳幼児や高齢者では重症化しやすい。ノロウイルスは食中毒の原因にもなり、感染源が何であれ、ごく少数のウイルスが体内に入っただけで発症するため予防が難しい。
宇田川悦子氏は、こうした下痢症を引き起こすウイルスの研究に、国立感染症研究所の前身である国立予防衛生研究所の時代から携わってきた。「嘔吐下痢症や急性胃腸炎は昔から数多く発生していたという記録が残っているのですが、1970年頃までは、症状があっても病原体がわからないという状態が続いていました。私が研究の世界に入ったのは、そんな時代のことです」。
1968年、米国オハイオ州ノーウォークの小学校で嘔吐下痢症が集団発生した。その原因を探るべく、NIH(米国国立衛生研究所)のKapikian博士らは、当時黎明期にあった透過電子顕微鏡(TEM)を用いて患者の検体を調べ、小型球形ウイルスを発見、1972年に論文として発表した。それがのちにノロウイルスと呼ばれるようになる下痢症ウイルスであり、その発見以降、TEMを使用したウイルス検出・同定が世界各国で行われるようになっていく。
「TEMは当時非常に高価で、日本ではごく一部の施設にしか導入されていませんでした。そのうちの1台が国立予防衛生研究所にありました。私はその頃、別のウイルスを研究していたのですが、ウイルス中央検査部長であった甲野禮作先生から、下痢症患者さんの検体を、電顕を使った新しい手法で調べてみないかと言われたことが、下痢症ウイルス研究を始めたきっかけです」と宇田川氏は振り返る。

ウイルスを直接観察することの重要性

広く知られているとおり、細菌の大きさは光学顕微鏡でも観察できるマイクロメートル単位であるのに対し、ウイルスの大きさはその100~1,000分の1、ナノメートル単位である。ロタウイルスは直径約80~100ナノメートル、ノロウイルスはさらに小さい30ナノメートル前後であり、電子顕微鏡が登場して初めて、その形を目で見ることが可能になった。
日本における集団下痢症でよく知られているのは、1953年に千葉県茂原市で発生した「茂原下痢症」で、感染者7,000名を超える大規模なものだった。下水道処理施設の破損により下水が上水に混入したことと、上水施設の塩素消毒の不具合が重なったことが間接要因となって起きたとされる。直接要因である病原体については、国立予防衛生研究所が中心となった原因究明により、細菌性ではなくウイルス性であろうという結論が出された。「でも、当時の手法ではウイルスそのものを検出することはできませんでした。TEMによって下痢症ウイルス研究が大きく前進するには、それから20年近くを要したことになります。その後現在に至るまで、ウイルス検出方法として筆頭にあげられるのは、TEMによる直接観察です」。
ウイルス検出法はTEMによる直接観察のほか、抗原抗体反応を利用する方法、ウイルス感染による細胞形態の変化を観察する方法、そして1990年代に登場して広く利用されるようになった遺伝子増幅法がある。遺伝子増幅法にはRT-PCR法、リアルタイムPCR法、LAMP法などがあり、現在、ノロウイルスをはじめとするさまざまなウイルス検査に用いられている。検体中のウイルス数が少なくても簡便に検査できることがメリットだが、課題もあると宇田川氏は指摘する。
「まず、当然のことなのですが、事前に遺伝子配列のわかっているウイルスでなければ検出できません。未知のウイルスには適用できないということです。また、ノロウイルスのように培養系が確立されていないウイルスでは感染性が解明できていないため、遺伝子が検出されたことと感染性の関連が分からないことも課題です。そのため厚生労働省では、ノロウイルスの検出にはTEM法と遺伝子検査法との併用が必要であるとしています」。
TEMによる直接観察は、遺伝子配列が不明なウイルス、抗体が存在しないウイルスでも、目で見て検出できることが大きな強みだ。ただ観察にはまとまった量のウイルスが必要となるため、そのための前処理に手間がかかる。「ノロウイルスの場合は、小児科の先生にお願いして、患者さんの便を100 g、200 gという単位で大量に集めてきます。それを加速度10万G以上の超遠心機に何度も何度もかけて、ウイルスを分離、精製しなければなりません。100 gの便材料が、精製後は1 mLにも満たない量になります。この前処理はとても大変な作業ですが、実際に形を見ることは非常に重要です。形態と遺伝子情報が揃って初めて、科学的に信頼のできる同定が可能になるからです」。

原因物質としてウイルスが同定されるまで

日本における下痢症ウイルス、特にノロウイルスの研究において草分けとなった宇田川氏。「日本でも古くから乳児嘔吐下痢症研究は始まっていたのですが、全国各地でTEMを使用した小型球形ウイルス検査が実施されるようになったのは1970年代からです。さきほども言ったようにTEMを持っていた研究機関は全国でもそれほど多くなく、宮城県衛生研究所、東京都立衛生研究所、横浜市衛生研究所、大阪府立公衆衛生研究所、大阪市立衛生研究所、愛媛県立衛生研究所および国立予防衛生研究所などが各地から寄せられた検体のウイルス検査を行っていました」と語る。従来のTEMは暗室作業で観察および写真撮影を行い、DPE(写真フィルムの現像・焼き付け・引き延ばし)も各自が行う方法であったため、写真だけでは小型球形ウイルスと同定できるかどうかを見極めるのが困難であり、自分たちが検出したウイルス様粒子が本当に同じものかどうかという疑問が出てきた。そこで、各研究所の研究者が東京都立衛生研究所へ集まり、山崎(山崎修道氏:当時国立予防衛生研究所ウイルス中央検査部室長)研究班のTEM電顕観察による小型球形ウイルス粒子検出方法の標準化のための会議を開催した。形態学的研究はそれ以降も続き、ヒトロタウイルスと異なりノロウイルスのような小型球形ウイルスは直径も半分以下のため、検出が難しいことが確認された。


TEMによる形状観察の優位性を説き、技術の継承に力を注ぐ宇田川先生
(横浜市衛生研究所にて)

前述したようにノロウイルスは非細菌性食品媒介「原因不明」食中毒事件の一因と考えられていたが、当時は「食中毒の原因は食品衛生法で認め定めた原因物質に限る」とされており、ウイルスはそのカテゴリーには入っていなかった。そのため、ウイルスが検出されても、食中毒の原因物質とは認められず、「原因不明」として報告されてきたのだ。当時の状況を宇田川氏はこう話す。「1980年頃以降、各都道府県や政令指定都市に設置された地方衛生研究所の先生方が、非細菌性食中毒事件の原因究明のためにTEMを用いてウイルス粒子を検出、同定しても、食中毒事件としては『原因不明』になってしまうことが多く大変お困りでした。細菌性ではない食中毒が発生しウイルスが検出されているにもかかわらず、『原因不明』になってしまう、と」。
そこで、国立予防衛生研究所の宇田川氏らと地方衛生研究所の研究者が協力して「食品媒介ウイルス性胃腸炎集団発生全国実態調査研究班」を立ち上げ、1990年9月~1994年8月までの5年間の実態疫学調査を行うことを企画した。この研究班は、厚生科学研究班としては採択されなかったが、NGO(Non-Governmental Organization)研究班として、のちに大同生命厚生事業団から平成7年(1995)度第2回地域保健研究助成課題に採択されることとなる。
「このNGO研究班を立ち上げて、『最近5年間の食品媒介ウイルス性胃腸炎集団発生の全国実態調査』と題した全国調査を行った結果、原因不明と回答した非細菌性食中毒の9割方はウイルスが関与していることが判明しました。その報告『食品媒介性非細菌性食中毒全国実態調査報告書:1995年12月8日』を受けて、厚生省(現厚生労働省)から、1997年5月30日付食品衛生法一部改正で、食中毒の原因物質としてウイルスを導入するという局長通達が出されたのです。本来ならば、厚生科学研究費(公費)で行うべき実態調査を、一つのNGO研究班が実施し、結果として食品衛生法の改正にまで至ったことは、このNGO研究班を主導された故川本尋義先生(当時岐阜県衛生研究所)の偉業であり、その事業をともに実施できたことは本当に身に余る光栄でした。その後、地方衛生研究所では、ウイルス検出と同定検査を行えるようにするために、主要な研究所からTEMの導入が始まり、さらにそれに伴ってTEM検査法の標準化が急務となりました」。

バイオテロの対応にも欠かせないTEM

ウイルス性下痢症に対峙する地方衛生研究所の実態を間近に見ていた宇田川氏は、法改正に向けたエビデンス確立に携わる一方で、ウイルス性下痢症に関する検査技術のサポートや情報共有の必要性も実感していた。そこで、山崎修道氏、千葉峻三氏(現札幌医科大学名誉教授)、浦澤正三氏(現札幌医科大学名誉教授)らを発起人とする、「ウイルス性下痢症研究会」の立ち上げにも携わった。この研究会は、各地方衛生研究所をはじめ大学や予防衛生研究所など、産官学の研究者が技術知識や情報の交換、TEMで撮影したウイルスの画像の検証や、オープンなディスカッションを行える場として1989年に発足したものだ。宇田川氏は、その後の運営でも中心的役割を果たし、会員は当初の28名から、30周年を迎えた現在、約200名を数えるまでに拡大している。
こうした活動を通じて、TEMを活用したウイルスの観察手法は日本中に広がり、ウイルス研究の発展とともに公衆衛生の向上にも貢献してきた。
近年、分子生物学が進展する中で、ウイルス研究において遺伝情報が偏重される傾向があるが、宇田川氏はそうした風潮に警鐘を鳴らす。「遺伝情報はもちろん大事ですが、未知のものを調べるための手法としてのTEMの優位性は、けっして低下していません。これだけ科学が進んだ社会で未知のものなどないと思われるかもしれませんが、例えばテロ全般の脅威が拡大する中で、バイオテロの危険性は確実に高まっています。もし危険なウイルスがばらまかれたとして、それをすばやく検出できるのは、やはりTEMしかないでしょう」。
例えば天然痘ウイルスであれば、水疱の中の漿液しょうえきを採り、支持膜に載せて見るだけで、ものの30分もあれば確定診断することが可能だと宇田川氏は言う。このようにTEMは有用性が高い反面、正しく観察するには経験を積み技術を磨く必要がある。「だからこそ、研究でも簡便な方法だけに頼らずに、TEMを使いこなす技術を学んで、身につけておくことが大切だと考えています」。

TEMの進化にも期待

国立感染症研究所を定年退職した宇田川氏だが、研究生活で培ってきたTEMの技術と豊富な知見を頼る研究者は数多い。現在、東北大学工学部、京都大学工学部、東京大学工学部などの研究者と、水環境中のウイルスや下痢症ウイルスに関するさまざまな共同研究を行っている。2017年には、北里環境科学センターの林伸行氏、新日本空調株式会社の高塚威氏らと共同で、吐しゃ物の飛沫による汚染範囲に関する研究を行い、日本感染症学会で報告している(SI NEWS Vol.61-1 研究報文「ヒト由来ノロウイルスの現状と今後の課題」参照)。
「そのほかにも、研究成果として蓄積してきたTEM画像の材料がたくさんあります。それをできるだけ多くの研究に役立てていただくだけでなく、技術を継承していくことにも力を入れています」。TEMを使う若手研究者が減少傾向にあると言われるが、その優位性を実感してきた世代として、次世代を育てなければならないという使命感がある。「私が若い頃はまだフィルムで撮影していた時代で、真っ暗な部屋に一日中こもってTEMをのぞいていました。その頃と比べたら格段に使いやすくなっていますし、積極的に活用して研究の発展に役立ててほしいのです」。
光学顕微鏡、そして電子顕微鏡が登場し、肉眼で見えなかった世界が観察可能になったことは、感染症研究を含めた科学の発見と発展に大きく貢献してきた。「形を見ることの大切さは、これからも変わらないと思います。その道具としてよいものがあるのだから、うまく使いましょうよ、こんな使い方もできるのよ、ということを、若手研究者の皆さんには話しています」。

そのために、TEMそのものの進化も必要であると言う。「できれば卓上サイズで持ち運べるようになってほしいですね。そうなると、途上国や災害時の避難所など、感染症が発生している現場に持って行き、その場で検査することも可能になるでしょう。機能を絞ってウイルス観察専用といったかたちにすれば、それほど高電圧でなくても済みます。価格も抑えていただければ、使ってみたいという方は増えるはずです。」
こうした装置への要望をはじめ、電子顕微鏡に関する意見や情報を交換する場として、ウェブサイト「バイオ電顕の広場」も立ち上げる計画だ。「私が現役だった時代と今では電顕に対する考え方や求めるものも違うでしょう。ウェブ上で気軽に意見交換ができれば電顕への関心も高まるのではないかと期待しています。ウイルス性下痢症研究会の活動も含めて、必要とされるところがあれば、私が蓄積してきた知識や材料は惜しまず提供します。それが電顕の装置技術や感染症研究、ひいては科学の発展に役立つのであれば、こんなに嬉しいことはありません」と熱心に語る宇田川氏。第一線での活躍は、まだまだ続きそうだ。

編集後記

宇田川先生とは、有難いことに、20年ほど前からウイルスのTEM観察のノウハウをご指導頂いている。工場のデモラボで設計部門の若手エンジニアと一緒に実験を重ね、2002年には連名でJournal of Virological Methodsに、臨床検体からウイルスを自動探索するTEMシステムを発表頂いた。その当時より、形態観察の重要性を一貫して説かれてきた宇田川先生の研究ポリシーに大いに勇気付けられ、色々なシーンで背中を押して頂いた。電子顕微鏡で見るナノの世界は、非常に情報量が豊富である。電子顕微鏡は他の分析技術や計測手法と組み合わせることによって、微細な構造だけでなく、その機能解析も可能としている。宇田川先生は、常に感染症対策の現場においても、化学的分析のみならず、形態観察の重要性を説いておられ、現場のよき相談役として、後身の育成に当たっておられる。今回、インタビューを通して、改めて、その熱い情熱、姿勢に感銘し、襟を正した。

(中澤英子)

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