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走査電子顕微鏡(SEM)の世界的権威として知られる田中敬一 鳥取大学名誉教授が2019年10月に93歳にて逝去された。
田中氏は1966年に日本で最初に発売されたSEMに出会い、当時、研究対象としていた目の水晶体のSEM像を撮影した。水分を多く含む生物試料は電子顕微鏡に向かないと見られていたが、グリセリンを浸透させておくという工夫を施し、日本で初めて生物試料のSEM写真撮影に成功したのである。以降、SEMの生物試料への応用と倍率向上を研究分野としてきた田中氏は、鳥取大学医学部長を務めていた1985年、日立製作所の協力を得て倍率80万倍のSEMを開発。長年の苦労の末に当時の世界最高倍率を達成し、同装置で撮影した鮮明なエイズウイルス像は世界に配信され注目を集めた。
SEMによる生命科学発展の扉を開いた田中敬一氏。その功績をたたえ、愛弟子であった鳥取大学の稲賀すみれ氏と、田中氏の開発した試料作製技法を受け継ぐ旭川医科大学の甲賀大輔氏をオンラインで結び、特別対談を開催した。「田中敬一先生との思い出」をテーマとする前編では、在りし日の田中氏とのエピソードや、お二方の現在の研究について伺った。
*《 前編》《後編》の 2部に分けてお伝えします。

元鳥取大学医学部長 瑞宝中綬章・米子市市民栄光賞受賞(平成9 年) 田中 敬一 先生
元鳥取大学医学部長
瑞宝中綬章・米子市市民栄光賞受賞
(平成9 年)
田中 敬一 先生

対談 鳥取大学 医学部 解剖学講座 プロジェクト研究員 稲賀 すみれ氏 × 旭川医科大学 解剖学講座 顕微鏡解剖学分野 准教授 早賀 大輔氏

自転車に乗った学者の鑑

――本日は田中敬一先生を偲び、親交の深かったお二方とその功績を振り返るとともに、電子顕微鏡の可能性を展望したいと思います。まずはお二方の田中先生との思い出をお聞かせいただけますか。

稲賀 田中先生の経歴はご存知とは思いますけれど、最初にざっとご紹介しますね。先生は鳥取大学医学部の前身である米子医科大学を卒業し、1年間のインターンを終えて解剖学教室に助手として入られました。以来、1991年の退職まで解剖学教室で研究と教育にいそしみ、医学部長在任中に超高分解能走査電子顕微鏡(Ultra-High Resolution SEM: UHS-T1)を開発されました。残念なことに私はその頃、育児休業中だったため、開発の詳しい経緯は存じ上げないのですが、先生のご著書『超ミクロ世界への挑戦―生物を80万倍で見る』に詳しく書かれています。
私が所属していたのは田中先生の教室(解剖学第二)ではなく、もともと田中先生の教室におられた飯野晃啓先生の教室(解剖学第一)でした。とはいえ2つの教室のメ ンバーは家族のようなもので、和気藹々とした雰囲気の中で研究を行っていました。
私の研究テーマは染色体の高次構造の解明でしたので、超高分解能SEMが完成した1年後に復職すると、田中先生から新しい装置の性能を確認するためにDNAの二重らせん構造を見たいと言われ、お手伝いしました。田中先生みずからオペレーターを買って出てくださり一緒に挑戦したのですが、最初はなかなかうまくいきませんでした。試行錯誤を繰り返しながら1年半ぐらいかけてようやく二重らせん構造がきれいに撮れたときには、とても嬉しかったことを憶えています。
田中先生が医学部長を1期2年だけで退かれたことも印象深い思い出です。本学では学部長は2期務めるのが慣例でしたが、田中先生は「早く研究に戻りたいから」と、周囲に惜しまれつつあっさり辞められました。当時からよく、「私は旅客機ではなく戦闘機のパイロットでありたいんだ」とおっしゃっていて、常に最前線で研究する姿勢を貫かれていましたね。私は「その戦闘機の隅でいいので一緒に乗せてください」という気持ちで田中先生に一生懸命ついてきました。

甲賀 田中先生らしいと思います。周囲の方々からも慕われていたのでしょうね。

当時、鳥取大学の学生が制作した田中先生テーマ曲の歌詞カード。先生と学生の距離感がうかがえる。
当時、鳥取大学の学生が制作した田中先生テーマ曲の歌詞カード。
先生と学生の距離感がうかがえる。

稲賀 ええ。超高分解能SEMが完成したとき、お祝いに当時の軽音楽部の学生が田中先生のための楽曲を作詞・作曲してプレゼントしたのです。「上海帰りの電顕野郎」というタイトルの楽しい曲で、その歌詞の中に、「みんなが大好き解剖の先生」とか「自転車に乗った学者の鑑(かがみ) スーパーミクロの学部長」というくだりがあります。田中先生は当時(乗用車が一般的)では珍しく自転車で通勤されていて、お昼は毎日ご自宅へ戻って奥様の手料理を召し上がっていたこともあり、学生たちもよく自転車に乗る姿を見かけて親しみを感じていたようです。

「とてもよくできていますね」というお褒めの言葉

甲賀 そのお姿が目に浮かびます。僕が研究の道に入ったのは田中先生が退職されたあとだったため、稲賀先生のように現役時代を存じ上げないことが残念でなりませんが、オスミウム浸軟法に関する論文は僕に大きな転機をもたらしてくれました。論文に掲載されていた、オスミウム浸軟法による細胞の断面画像を初めて目にしたとき、SEMでこんな世界が見えるのかと圧倒されたことを憶えています。この手法によって、それまでSEMでは細胞の外側しか見られなかったのが、細胞内にあるミトコンドリアや小胞体をダイレクトに見ることが世界で初めて可能になったのです。僕は、この素晴らしい手法をどうしても自分で再現してみたいと思いました。
ところが、論文の手順を参考にしてもなかなかうまくいきません。どのような条件であれば成功するのか、そこに書かれていないコツは何なのか、独学で探りながら試行錯誤の毎日でした。そして大学院生の頃にはなんとか習得でき、僕がオスミウム浸軟法で撮った細胞の写真が、ある科学雑誌の表紙を1年間4回にわたって飾ることになったのです。その雑誌には田中先生もコラムを連載しておられたので、僕の画像を見てくださったのでしょう、最初の号が出たあとに先生からお手紙をいただきました。
「あなたの写真を見ました。とてもよくできていますね」というお褒めの言葉を目にした時は、本当に嬉しかったですね。早速お返事を書き、以来、先生がご逝去されるまで折に触れて手紙のやりとりをさせていただきました。まだ海のものとも山のものともつかない大学院生の僕を気にかけて温かく見守ってくださり、研究などで迷ったときも相談すると適切なアドバイスをくださるなど、精神的にも支えていただきました。
鳥取のご自宅へ伺ったとき、奥様が美味しい料理でもてなしてくださったことも、忘れることのできない思い出です。田中先生のような研究者としても人間としても尊敬できる方と交流を持てたことは、僕のかけがえのない財産です。

稲賀 オスミウム浸軟法を独学でマスターされたのはご立派だと思いますよ。

甲賀 ありがとうございます。そこは僕のこだわりと言いますか、手法について田中先生に教えを請うのは違うだろうと思ったのです。とにかく自分の力だけできれいな試料の作製に成功して、先生に評価していただきたいという一心で頑張りました。
僕自身、いろいろな質問を受けますが、最初からいきなり教えてくださいと言われることはあまり好きではありません。まずは自分で手を動かしてみることが大切なので、その姿勢は次世代の研究者たちにも受け継いでもらいたいと願っています。

オスミウム浸軟SEM像の例
オスミウム浸軟SEM像の例
THE HITACHI SCIENTIFIC INSTRUMENT NEWS Vol.58 No.2.(2015)
「連続切片SEM法 Serial section scanning electron microscopy」
https://www.hitachi-hightech.com/jp/ja/sinews/reports/5008/

Beauty is truth, truth beauty.

稲賀 田中先生ご自身も、撮影方法などについてあれこれ口は出さない方でした。でも結果についてはとても厳しく、常日頃から「とにかく美しい写真を撮ることを心がけなさい」と。先生にとっては「美しさ」が最も大切な基準だったのだと思います。電顕写真も、事実が写っていればそれでいいだろうと思いがちですけれど、先生は「美しい写真でなければ人を説得できない」と、写真の構図も大切にされていました。私が写真を持っていくと、「ちょっと構図が悪いから美術館に行って絵でも観てきなさい」とよく言われたものです。それで撮り直したり、取り直せないときはトリミングを工夫したりして、私も美しさに気を配るようになりました。
イギリスの詩人のジョン・キーツの詩に、「Beauty is truth, truth beauty.」という一節があります。「美は真実であり、真実は美しい」といった意味ですが、この言葉を田中先生は大切にされ、価値判断の根底に置かれていました。
さきほどDNAの二重らせん構造の撮影に1年半かけたと言いましたけれど、それだけ長い間待ってくださったのも、先生の美しさへのこだわりであり、また懐の深さの表れだとも思います。今の時代は何かにつけてスピードが求められますが、先生の結果に対する厳しい姿勢と、結果を待てる寛容さということを、もう一度思い出して大切にしなければならないと思います。

甲賀 「美しさ」に関しては僕も同感で、撮るからには美しさにこだわるべきだと思います。それは形態学者として譲れないポイントですし、田中先生に限らず電子顕微鏡のパイオニアの先生方はこだわっておられたはずです。例えば、どんなに重要な試料でも、ゴミがのっていたりしたら僕は絶対に写真は撮りません。可能であれば、もう一度試料をつくりなおします。でも、実際には、美しさにこだわっている人は少ないように思えます。稲賀先生もおっしゃるように、今は結果を早く出すことが求められ、それは成果主義の世の中で仕方のないことかもしれませんが、電顕を扱う人間として「何を提示すべきか」という精神の部分が軽視されているように感じます。
そうした状況を改善していくためには、電顕の撮影術などを学ぶ機会が増えることが理想です。それが難しくても、僕自身は美しさにこだわった写真を撮ることを通じて、電顕の魅力を伝えられるよう努力していくつもりです。

低真空SEMを腎生検に応用する

――稲賀先生は染色体の高次構造の解明に取り組んでこられたとのことですが、現在のご研究についてお話しいただけますか。

稲賀 私は2018年3月で大学を定年退職しており、現在はプロジェクト研究員というポストで日立ハイテクとの共同研究を続けています。研究のメインテーマは、卓上型低真空SEMを用いた腎生検診断法の確立です。
腎臓の病理組織の解析を始めたのは2008年からですが、実はそれ以前からさまざまな病理組織の低真空SEMによる観察に取り組んでいました。低真空SEMは、生体組織のように水分を含む試料や絶縁体でも煩雑な前処理なしで観察でき、操作も簡単なことから、生検に利用できるのではないかと考えたのです。ただ私は臨床医ではないため、どの組織への適用が望まれているのかわからず迷っていたところ、日立ハイテクの透過電子顕微鏡(TEM)担当の方から、「すでにTEMの診断法が確立されている腎臓がよいのでは」というアドバイスをいただき、腎生検にフォーカスすることにしました。
当時、私は助手で研究費も少なかったため、日立ハイテクのラボ設備やデモ機をお借りしながら、病理学や腎臓の専門医の皆さんに協力いただいて標本を集め、いくつかの論文にまとめることができました。その成果はすぐに臨床医の方々から注目されたわけではありませんでしたが、日立ハイテクの担当者さんと一緒に顕微鏡学会や解剖学会などでの発表を地道に展開したことで、次第に認められるようになっていきました。
特に、腎臓病理学の権威である日本医科大学の山中宣昭名誉教授は早い段階から注目してくださり、2017年に設立された「腎生検LVSEM研究会※」の会長を務めていただいています。ほかにも多くの先生方から将来性を認められ、診断法の確立と臨床応用に向けて前進しているところです。10年がかりでしたが、自分の研究が日の目を見て社会貢献できる可能性が高まっていることは、恵まれていると感じますね。
もう1つのテーマは、やはり日立ハイテクとの共同研究で、集束イオンビーム(FIB)装置(FIB-SEM)を用いた染色体の高次構造の解明です。これはさきほど言ったように私が40年以上前から取り組んでいるテーマで、実はDNAの塩基配列は解読が進んだ一方で、染色体の微細構造というのはまだ明確にはわかっていないのです。その解明が私の研究のゴールだと思っています。

※ THE HITACHI SCIENTIFIC INSTRUMENT NEWS Vol.60 No.1.(2017)
「腎生検光顕組織標本の低真空走査電子顕微鏡による 検索 (Examination of the Light Microscopic Slide of Renal Biopsy Specimens by Utilizing Low- Vacuum Scanning Electron Microscope )」
https://www.hitachi-hightech.com/jp/ja/sinews/reports/6010203/

――低真空SEMによる腎生検は、臨床応用されると患者さんや医療現場へのメリットも大きいのでしょうか。

稲賀 はい。メリットはいくつかありますが、まず患者さんへの負担軽減が挙げられます。腎臓に限らず生体組織の観察・診断は、通常、組織の一部を採取して光学顕微鏡用のパラフィン切片を作製し行います。腎臓ではTEMによる電顕診断も行いますが、その場合はパラフィン切片とは異なるサンプルをあらためて採取しなければなりません。これに対して低真空SEMによる診断は、通常作成するパラフィン切片で行えることが最大のメリットです。
また、TEMによる電顕診断は、試料の作製と診断に専門的な知識や技術が必要であるため専門の検査会社に委託することが多く、時間もコストもかかるのが課題でした。低真空SEMは価格面でも扱いやすさの面でも、ルーティンの病理検査用装置として各医療機関に導入できる可能性があります。
試料の染色法についても、当初は田中先生が開発された白金ブルー染色というシグナル増強剤を使用していましたが、通常パラフィン切片に用いられるPAM(過ヨウ素酸メセナミン銀)染色でも観察できることがわかりました。これにより、従来の手順のまま観察装置をSEMに変えるだけで、光学顕微鏡ではわからなかった詳細なデータが得られ、早期診断が可能になると期待されています。特に、近年増加している腎移植において、移植後の腎臓が免疫反応によって排除される兆候(拒絶反応)をより早い段階で捉え、対処することができるのも大きなメリットになります。

ゴルジ装置の全体像を見てみたい

――甲賀先生は、SEMによるオルガネラ(細胞小器官)の形態・機能解析を研究テーマとしておられますね。

甲賀 生物の微細な構造や形態を解析するための3Dイメージング技法はいろいろありますが、僕が今、力を入れているのがオスミウム浸軟法と連続切片SEM法です。連続切片SEM法というのは、樹脂に包埋した試料から超薄切片を数百枚~千枚ほど切り出し、SEMで順番に観察、その中から興味のある領域を立体再構築して解析するという、最新の手法です。おそらく日本では僕らのグループが最も早く、この手法を完成させたと思います。
オスミウム浸軟法は、凍結割断という方法で細胞をきれいに割り、その断面から可溶性タンパク質を取り除き、膜成分を選択的に残す魅力的なイメージング技法ですが(その断面を観察するため)、局所的な超高分解能3Dイメージングに強い反面、細胞内に広がるオルガネラの全体像観察には向いていません。特に、僕が興味を持っているゴルジ装置は、ミトコンドリアや時には核よりもはるかにサイズが大きく、断面を見ただけでは全体像を把握できないのです。田中先生もオスミウム浸軟法でゴルジ装置を観察されていましたが、この手法ではゴルジ装置(層板)を構成するゴルジ槽の微細構造を観察するには適しています。一方で僕は、オスミウム浸軟法では解析困難なゴルジ装置の全体像を見てみたいという気持ちが強く、連続切片SEM法にチャレンジしました。
ゴルジ装置というと、よく教科書に載っている袋状のゴルジ槽が重なった模式図が思い浮かぶかもしれませんが、SI NEWSの報文*でもご紹介したように、本当の立体像は複雑でイメージがまったく異なります。これまでゴルジ装置の形状が細胞種や機能状態によって大きく異なることを解明してきました。これら様々な細胞のゴルジ装置の基本的な形状を理解することで、将来的には、この小器官の形態変化を特徴とする病態の解明にも役立てていければと考えています。

※ THE HITACHI SCIENTIFIC INSTRUMENT NEWS Vol.58 No.2.(2015)
「連続切片SEM法 (Serial section scanning electron microscopy)」
https://www.hitachi-hightech.com/jp/ja/sinews/reports/5008/

――連続切片SEM法の課題と長所を教えていただけますか。

甲賀 連続切片SEM法を実際に行うには、安定した連続超薄切片の切削技術を習得する必要があります。また、超薄切片の厚さが、z軸分解能にも大きく関係していることも理解した上で、観察対象を決定することが大切です。
3Dイメージング技法には、連続切片SEM法以外にFIBで試料の表面を削りながら観察していくFIB-SEM法もあり、この手法では、樹脂包埋ブロックを数nmピッチで切削することができるためZ軸の分解能は高くなります。一方で、試料を破壊的に削ってしまい撮り直しができないというデメリットがあります。それは、SEMの試料室内にダイヤモンドナイフを組み込んで切削しながら断面を観察するSBF(Serial Block Face)-SEM法も同様ですね。連続切片SEM法は、試料を半永久的に保存でき、何度でも再観察できることが大きなメリットです。
また、切片のブロックを大きくすることで広範囲の解析ができることや、特別な装置を必要とせず高分解能のSEMがあれば解析ができ、コスト面で優れていることなども連続切片SEM法のメリットと言えます。どの方法も一長一短がありますので、観察したいもの、目的に合わせて使い分けるのがよいのではないでしょうか。

連続切片像の3D再構築法の流れ
連続切片像の3D再構築法の流れ
※ THE HITACHI SCIENTIFIC INSTRUMENT NEWS Vol.58 No.2.(2015)
「連続切片SEM法 Serial section scanning electron microscopy」
https://www.hitachi-hightech.com/jp/ja/sinews/reports/5008/

――連続切片の作製は難しそうです。

甲賀 たしかに皆さんそこにハードルを感じられるようで、私たちも習得に2年ぐらいかかりましたが、ゴルジ装置の全貌をどうしても見たいという一心で鹿児島大学の久住聡助教と共に頑張ることができました。研究というのはそういうものではないでしょうか。いろいろな制約もある中で、「知りたいこと」をめざして知恵を絞って努力する。私たちはSEMでみたいもの(構造)がある限り、努力は惜しみません。
田中先生が日立ハイテクと一緒につくられたSEMを、学術的ツールとして発展させていくことが、跡を継ぐ僕たちの大切な使命です。稲賀先生はそれだけに留まらず、臨床検査という実用領域にまで電顕の応用範囲を拡大することに取り組まれていて、素晴らしいと感じます。

稲賀 低真空SEMの臨床応用については田中先生も驚いて、喜んでくださいましたね。低真空SEMの可能性に早くから着目されたのも田中先生で、大学を退職されたのち、今から26、7年前に応用研究を始められました。低真空SEMなら自宅にも置けて、含水状態の生物試料を観察できるという強みを活かせば、新しい世界が開けるのではないかと期待されたのです。そして2000年4月にご自宅に田中SEM研究所を開所され、S-2460 Natural SEMをずっと愛用されていました。
田中先生が低真空SEMに着目された当初は、時代が追いついておらずあまり注目されませんでしたが、最近になって日立ハイテクの装置開発の努力もあって低真空 SEMが身近なツールになってきましたね。操作性のよいツールができたからこそ、診断などにも応用できる可能性が広がったのだと思います。

2019年10月に逝去されたSEMの世界的権威、田中敬一先生の功績をたたえて行われた、鳥取大学の稲賀すみれ氏と旭川医科大学の甲賀大輔氏による対談。
後編では「田中敬一先生の志を継いで」をテーマに、田中氏の遺志を継ぎ電子顕微鏡の可能性を広げていく取り組みや、お二方の研究のこれからについて語り合っていただいた。

(対談者)
鳥取大学 医学部 解剖学講座 プロジェクト研究員 稲賀 すみれ 氏
旭川医科大学 解剖学講座 顕微解剖学分野 准教授 甲賀 大輔 氏

子どもたちが電子顕微鏡に親しむ環境を

――田中先生からお二方へとつながる研究の系譜が、SEMの可能性を広げていることがわかりました。その電顕の裾野を広げていく活動として、稲賀先生は「電子顕微鏡のまち・米子市」*推進協力会で尽力されていると伺いました。どのような活動なのでしょうか。

稲賀 このお話は、私が2018年に退職する間際に舞い込んできたものです。もともとは田中先生が高齢になって研究を続けることが難しくなり、ご自宅で愛用されていたS-2460 Natural SEMを米子市に寄贈したいと申し出られたことが発端でした。当初は話が進んでいたようですが、市長の交代などもあって頓挫してしまい、どうしたものかと田中先生から相談があったため、私が同級生の伝手を頼って市の教育長さんにあらためて申し出ることにしたのです。
実は、米子市は田中先生だけでなく、TEMのパイオニアである故 菅田栄治先生(元大阪大学工学部長)も輩出しています。SEMとTEMの第一人者が同じ米子市の出身ということは素晴らしいご縁ですよね。なのに、その事実はほとんど知られていません。そこで、寄贈した田中先生の装置などの展示を通じてお二人の功績を世に知らしめてたたえるとともに、電顕の実機を置いて教育的にも意義のある環境を整備すること、その新しい装置は私たちで寄付を募って購入することを提案しました。すると市長からも快諾され、米子市児童文化センターの一角に、展示と実際に利用できる卓上型低真空SEMを設置するプロジェクトがスタートしました。
私としては退職して時間ができたら取り組むつもりだったのですが、医学部長から「同窓会も医師会も協力してくれるから、退職するまでにやりなさい」と言われ、走り出したのが2017年12月のことです。ところが思ったよりも寄付が集まらず、目標額の500万円に到達したのは、翌2018年3月26日のオープニングセレモニーを迎えたあとだったという綱渡り状態でした。とはいえ、2か月あまり前から入院されていた田中先生も車椅子でセレモニーに駆けつけてくださり、一緒にお祝いできたことは、ほんとうに幸いでした。
実機のMiniscopeRが置かれているのは、児童文化センターのエントランスホールの一角にある「ミクロの世界探検コーナー」で、大人から子どもまで気軽に観察できるのが特長です。操作は私を含めて3名の指導員がいるときのみ行いますが、試料を見せてほしいというリクエストも多くありますね。夏休みの自由研究用には1人1時間で40コマほど割り振りますが、あっという間に埋まってしまうほどで、これまでに撮った電顕写真は9,000枚近くにのぼります。

甲賀 僕も開設記念の特別講演会に講師として呼んでいただきましたが、すぐそばに卓球台があるような環境なので驚きました。でも、子どもから大人まで電子顕微鏡を自由に使えるという画期的な施設は、おそらくほかにないと思います。

稲賀 子どもたちが走り回って埃も振動もいっぱいの環境なのに、装置自体のトラブルも今のところなく、埃も中にまったく影響していないのですよ。日立ハイテクのMiniscopeRの頑丈さも実証されていますね。

※ 電子顕微鏡のまち米子HP
http://denkenyonago.com/

米子市児童文化センターの一角に開設された「ミクロの世界探検コーナー」
米子市児童文化センターの一角に開設された「ミクロの世界探検コーナー」

オープニングセレモニーで元気なお姿を見せてくださった田中敬一先生
オープニングセレモニーで元気なお姿を見せてくださった田中敬一先生

子供たちは電子顕微鏡を自分の手で操作することができる
子供たちは電子顕微鏡を自分の手で操作することができる

観察手法の指導をする稲賀先生。協力会メンバーの講習を受けたボランティアが交代で子供達のサポートに当たっている。
観察手法の指導をする稲賀先生。協力会メンバーの講習を受けたボランティアが交代で子供達のサポートに当たっている。

マスメディアを通じたアウトリーチ活動

――実際に電顕を使った研究で表彰された子もいらっしゃるそうですね。

稲賀 ええ。開所当時、中学2年生だった石倉要(いしくら かなめ)さんは、通い続けて今では自分で操作もできるほどです。文章も上手で、数々の作文コンクールで入選しているのですが、先日は、産経新聞の高校生文化大賞2020に応募した「ミクロへの挑戦をつなぐ」が全国2位の「優秀賞」を受賞されました。その作文には中学生の頃から続けてきた電顕での試料観察のこと、田中先生や私との交流について、そしてミクロへの挑戦者として田中先生の思いを受け継いでいきたいという決意がつづられていて、児童文化センターの電顕が彼の科学への思いを後押しできているなら素晴らしいことだと感じます。
また、小学生の椋千晶(むく・ちあき)さんが撮影したミニトマトの表面の腺毛の写真は、2019年の日本顕微鏡学会の写真コンクールで「特別賞」を受賞しています。まるで四つ葉のクローバーのような腺毛の形がとてもきれいな写真で、例年は最優秀賞1点のみが選出されるところ、特別に表彰されたのです。当時小学2年生の快挙ということで地元でも話題となりました。
子どもたちは、私たち研究者が既成概念や先入観が邪魔して撮れないような写真を撮りますし、それが私たちにとって刺激にもなっています。田中先生は以前から、「子どもたちにミクロの美しい世界を知ってほしい、体験してほしい」とおっしゃっていましたから、その願いがかたちになり、泉下で喜んでいらっしゃるはずです。

甲賀 そのプロジェクトは、やはり稲賀先生だからこそ実現できたのだと思います。比べるとお恥ずかしいですが、電顕の裾野を広げるための活動として僕が行っているのは、マスメディアに出て行くことです。例えば最近では、日立ハイテクの皆さんにもご協力をいただいてNHKの科学番組に出演しました。僕はもともと人前に出るのは苦手で、テレビ番組などに出演することも正しいかどうかわかりませんし、これまでは写真の提供や出演の依頼があってもお断りしてきました。しかし、「電子顕微鏡を一般の方々に広める、アウトリーチ活動の一環として考えてはいかがでしょうか」と言われて、考え方をあらためました。
昨今は、僕たちの世代でも「電子顕微鏡離れ」が危惧されています。その流れを食い止めるには、やはりメディアを通じて子どもたちにミクロの世界へ興味、関心を持ってもらうことが有効だと思います。もちろん僕一人でできることではなく、日立ハイテクをはじめ多くの皆さんのお力が必要ですが、アウトリーチ活動を続けて1人でも多くの方に電子顕微鏡の魅力を伝えていきたいと思っています。

稲賀 私たちの「電子顕微鏡のまち・米子市」の活動はあくまでも地域貢献、甲賀先生の活動は日本全国、全世界への発信というレベルの異なる貢献で、どちらも大切だと思います。甲賀先生の美しい写真だからこそ、説得力があり、見た人が感動できるのではないでしょうか。「Beauty is truth, truth beauty.」を広く伝える活動は、これからも積極的に展開していただきたいと思います。

甲賀 ありがとうございます。

アートとしての電顕写真を楽しむ

――電顕写真をアートとして発表されている方もいらっしゃるとか。

稲賀 そうなんです。「電子顕微鏡のまち・米子市」の活動では、アーティストとの出会いもありました。2019年3月に開設一周年記念のイベントで、子供たちの撮った百数十枚の電顕写真を米子市美術館と児童文化センターに展示したところ、アーティストで音楽家の松浦友也さんが観にきてくださったのです。松浦さんはSEMで撮った写真をアートとして発表されていて、日本顕微鏡学会の写真コンクールに応募されたこともあるとのことでした。それがたまたま、私と日立ハイテクの皆さんが共同で応募したHeLa細胞の染色体の写真が最優秀賞を受賞した年であることが分かり、そのご縁もあって交流させていただくようになりました。
2019年9月の染色体学会では、松浦さんがそのHeLa細胞の写真の動画に音楽をつけて下さった作品を、論文によらない音と映像での(研究成果の)提示方法として発表して好評を博しました。さらに現在は、松浦さんとのコラボレーション企画として、電顕写真と音楽を組み合わせた画像コンテンツを制作しています。完成したら米子市児童文化センターにあるプラネタリウムで上映する予定です。
松浦さんの作品は、アートイベント「BIWAKOビエンナーレ2020」の公式ポスターにも採用されるなど、芸術的な美しさが多くの人を魅了しています。電顕の新たな応用領域として、アーティストの表現ツールというのも有望ではないかと、彼の作品を見ていると感じますね。

甲賀 僕もSEM像をアートとして捉えている側面はあります。モノクロでは自然の造形美が感じられますし、色をつけるとまた違った世界が広がります。今は学術的な正確さという視点で視認性を高めるための色づけをしていますが、時間があればアーティスティックな彩色にも挑戦してみたいと思っています。

「だけど何かまだ足りないんだよな」

――最後にお二方のこれからの目標についてお聞かせください。

稲賀 やはりさきほども言ったように、これまでの研究をきちんと形にすることですね。実は私自身も退職金でMiniscopeRを購入しまして、プロジェクト研究員を退いても田中先生のように研究を続けていくつもりでおりますが、染色体に関しては、FIB-SEMが不可欠ですから、ひとまずはこれまでのデータをまとめることが直近の目標です。低真空SEMによる腎生検については、導入しやすい手法を確立することで普及を後押しできればと思っています。
また「電子顕微鏡のまち・米子市」の活動もさらに発展させていきたいですね。近いところでは、三周年記念のイベントとしてプロアマ問わず参加できる電顕写真のコンクールを開催する構想を温めています。

甲賀 僕もこれからやりたいことはたくさんあるのですが、本日の話題に関連して言うと、オスミウム浸軟法を誰もができる方法として確立していくことですね。オスミウム浸軟法はうまくいくと本当にきれいな像が撮れるのが魅力です。そのことは理解されていても、やはり難しいので諦めたとか、甲賀だからできるんじゃないかと言われてしまうことも多くあります。ただ、僕も10年以上挑み続けてきて最近ようやくコツがわかってきたところなのです。
オスミウム浸軟法の基本的な原理は(前編でも述べましたが)、薄いオスミウム液を使うことで可溶性タンパク質を抜いて膜を選択的に残すというものです。これまで僕なりに試行錯誤した結果、浸軟処理の際の温度条件がポイントになることがわかってきました。田中先生が提示された条件は20℃をキープするというものでしたが、僕は、温度をもう少し高く設定することで浸軟時間が短縮でき、失敗もほぼなくなることを発見し、論文として発表することもできました。さらに今後は、固定液の条件も見直し、より簡単に、誰でも安定して再現できる方法を提示したいと考えています。
それによってオスミウム浸軟法を普及させることが、田中先生に対する恩返しになるのではないかと思うのです。そして、オスミウム浸軟法を今では皆が使えるようになりましたと、先生の墓前にご報告することが夢ですね。

稲賀 甲賀先生、以前、一緒に田中先生のお見舞いに伺いましたよね。そのときの田中先生は珍しく長い時間お話しされて、私たちのことを褒めてくださったり、労ってくださったりしました。でも最後に、「だけど何かまだ足りないんだよな」っておっしゃったのを憶えていますか。

甲賀 はい、よく憶えています。

稲賀 先生は私が何か成果をあげて報告したときも、褒めてくださったあとに必ずその一言をおっしゃっていました。それは、「1つの成功に満足しないで目標に向かって努力し続けなさい」という意味だと思うのです。田中先生ご自身も、そう自分に言い聞かせながらずっと頑張ってこられたのだと思います。
だから私は何かうまくいって喜んでいるときには必ず、先生のその言葉を思い出します。甲賀先生も、これからずっと田中先生にそう言われ続けるでしょう。現状に満足しないで、次のこたえを見つけるために頑張り続ける。その科学者としての姿勢も、田中先生の遺産として、私たちから広く次の世代へ伝えていかなければと思います。

(インタビュー・文:関 亜希子)

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