上下水道が整備され、食品の衛生管理レベルも高い現代の日本では、感染症や食中毒による死亡率は低い水準にあります。一方で、近年は気候変動、人と物のグローバルな移動の活発化、食の多様化といった要因により衛生リスクが多様化、複雑化しています。人々の健康と衛生を守る公衆衛生活動において重要な役割を果たしているのが、都道府県や指定都市に設置される地方衛生研究所です。保健所と連携し、感染症の発生状況の監視と原因微生物の特定、食中毒や環境汚染の原因解明などを担い、科学的根拠に基づく公衆衛生活動を支えています。その地方衛生研究所の中から、中部地方の中核都市である愛知県名古屋市で市民の健康を守っている名古屋市衛生研究所を取材させていただきました。微生物部の柴田伸一郎部長と小林洋平さんに、変化する感染症・食中毒のリスクに対応する業務と研究活動、病原体微生物の同定や研究における電子顕微鏡の役割などについて伺いました。
名古屋市衛生研究所
微生物部
部長
柴田 伸一郎 医学博士
名古屋市衛生研究所
微生物部
研究員
小林 洋平
感染症の予防や対策、食品・水・空気の安全確保、健康的な生活環境の実現など、広く人々の健康や生命を守るための活動を公衆衛生と呼ぶ。2019年末から発生した新型コロナウイルス感染症のパンデミックで、その重要性を再認識した方も多いのではないだろうか。感染症の拡大抑止のカギは、個人の努力だけでなく、社会全体での衛生管理や迅速な検査、正確な情報提供といった公衆衛生活動にある。
公衆衛生に関する活動を中核として担うのは地域の保健所(保健センター)である。そして保健所や関係省庁と連携し、衛生実態の把握や情報提供に欠かせない細菌やウイルス、化学物質などの検査機能を受け持つのが、都道府県と指定都市などに設置される地方衛生研究所だ。感染症や食中毒、環境汚染などに関する高度な検査、調査・研究、公衆衛生情報の収集・分析・提供などを担い、地域の人々の健康と生命、環境に対する安心・安全を守る科学的拠点と位置づけられる存在である。
名古屋市衛生研究所は、その地方衛生研究所の一つとして長年にわたって愛知県名古屋市の公衆衛生を支えてきた。開所は1924年、その後1966年より名古屋市中心部の瑞穂区で業務を行ってきたが、2020年2月1日に名古屋市北東部の守山区へ移転、緑豊かな丘陵地に建つ新しい庁舎で業務を行っている。
同研究所には疫学情報部・微生物部・食品部・生活環境部という4つの研究部門と業務課、管理課がある。各部署の業務と研究の概要は表を参照いただきたい。
その中で今回お話を伺った微生物部は、公衆衛生においてどのような役割を果たしているのだろうか。柴田伸一郎部長は次のように説明する。「当研究所の使命は名古屋市民の健康や安全を守ることです。その中で私たち微生物部は、感染症や食中毒の原因を迅速かつ正確に特定することによって、感染や被害の拡大を防ぐという役割を担っています。そのため、年間を通して多数の検査を行うとともに、関連する微生物の調査と研究にも取り組んでいます」
名古屋市の総人口は約233万人と、全国の市区町村の中では横浜市、大阪市に次ぐ第3位。中部地方の中核都市であり、国際海上輸送網において特に重要な拠点として政令で定められた国際拠点港湾の名古屋港を擁する。同じ愛知県内には国際拠点空港と位置づけられている中部国際空港もあり、国内外との人や物の往来が盛んなことから、感染症の発生リスクを常に抱える。
[表]名古屋市衛生研究所の各部門の概要
名古屋市衛生研究所は森林公園に隣接し、周りには自然が広がる。ちょうど取材中にフィールドワークを見かけた。
感染症には多くの種類があるが、1999年4月から発令された「感染症法」により、感染力や罹患した場合の重篤性などに基づく分類がなされている。その分類に応じて全数、あるいは定点での発生動向調査が行われ、予防のための施策と感染対策が行われる。調査対象の感染症が発生すると、医師から最寄りの保健所、保健所から都道府県に届けられ、状況に応じて注意喚起などの施策がとられる。
「私たちは保健所から依頼された検体について細菌やウイルスの同定と詳細な解析を行い、統計の基礎となるデータを作成するとともに、研究のために菌株サンプルをストックしています。政府は各地の衛生研究所から上げられる基礎データをもとに統計をとり、感染症対策を実施しています。私たちが行う検査、調査は基本的には厚生労働省からの通知に基づいたものであるため、地方衛生研究所によって扱う感染症の種類などが大きく異なるということはありません。ただ地域ごとに一定の傾向はあり、名古屋市は結核患者数が多いことから結核対策に力を入れています」(柴田部長)
結核の患者数は全体的には減少傾向にあるものの、最近は大都市で罹患率が上昇している。名古屋市の2023年の罹患率は10万人当たり11.3人(※1)で、大阪市、堺市、神戸市に次ぐワースト4位、特に70歳以上の罹患率が高い。
「潜在的に感染していた人が歳を取ってから発症するケースが多いのですが、最近は海外から持ち込まれる例も増えています。2021 ~ 2023年に名古屋市内で新たに結核患者として登録された方のうち外国人の割合は14.8%でした。結核に関しては、公益財団法人結核予防会結核研究所が結核菌の研究のためのデータベースを構築・運用しているため、私たちもデータ提供に協力しています」と柴田部長。特に多剤耐性結核菌が問題となっており、名古屋市衛生研究所ではその対策に向けた詳細なゲノム解析も行っているという。
※ 1 参照リンク先:
https://www.city.nagoya.jp/kurashi/category/8-4-3-4-2-0-0-0-0-0.html
柴田部長は、獣医学を修め名古屋市衛生研究所に籍を置きながら、名古屋大学医学部病態制御研究施設(当時の施設名、現在は改組されています)においてインフルエンザウイルスで学位を取得し、その後、国立感染症研究所(現 国立健康危機管理研究機構:JIHS)ウイルス第二部の武田直和博士、宇田川悦子博士と共同研究でノロウイルスを研究し、そのご縁で米国CDC R.I.Glass博士指導のもと、下痢症ウイルスの研究を行った。その後、名古屋市衛生研究所に復帰した。衛生研究所では保健所の依頼による検査をメインの業務としながら、研究員それぞれが専門分野や関心のあるテーマを掘り下げる研究・調査活動を行っている。柴田部長が個人的に力を入れてきたのは、デング熱に代表される蚊媒介感染症だ。
「名古屋市は海外との往来も多いためデング熱が年に数件発生し、新型コロナウイルスの流行収束後は増加傾向にあります。2023年までに発見された罹患者はすべて海外からの帰国者か入国者で、国内感染が疑われた例はありませんが、検出ウイルスの遺伝子系統解析を行い、感染地の推定などを行っています」
微生物部では、2005年から名古屋市内の蚊媒介感染症のサーベイランスを目的として、市内の蚊の生息調査とアルボウイルス(蚊やダニなど血液を吸う節足動物を介して人や動物に感染するウイルスの総称)の遺伝子保有調査を行ってきた。「デングウイルスは2011年から調査対象に加え、万一の流行時には速やかな情報提供ができるよう備えています」(柴田部長)
微生物部のもう一つ重要な業務が食中毒の原因究明だ。食中毒の主な原因はノロウイルスのほか、カンピロバクターや黄色ブドウ球菌、サルモネラ、病原性大腸菌などの細菌も多い。これらの細菌を主な研究対象としている微生物部研究員の小林洋平さんは、食中毒の近年の傾向と対策について次のように説明する。
「細菌性食中毒は、汚染された食材や不十分な加熱・衛生管理によって細菌が体内に入ることで発症し、特に菌が増殖しやすい梅雨ごろから秋口にかけて多く発生するのが特徴です。名古屋市では、カンピロバクターによる食中毒が多く発生しています。最近では特に加熱不十分の鶏肉を原因としたカンピロバクターの発生件数が増えていますが、鶏肉は解体時の汚染を避けることが難しく、新鮮な肉なら安全ということはありません。やはりよく言われるように、しっかり火を通してから食べることが自分の身を守る上でも大切です」(※2)
夏場に発生する細菌性食中毒の原因菌の一つにビブリオ感染症も挙げられる。小林さんは最近、名古屋市内で発生したビブリオ感染症について解析を行い、論文を発表した(Kobayashi et al., 2025)。
「ビブリオ菌は水系の感染症であり、汚染された魚介類や海水・汽水由来の菌による創傷感染を原因として発生します。近年の報告では、地球温暖化の影響による海水温の上昇や、それに伴う海洋中の細菌バランスの変化などにより、今後、水温の上昇とともにビブリオ感染症のリスクが増加することが報告されています。市内で発生したこれらの感染症の臨床分離株について詳細に解析し、データを蓄積しておくことにより、発生数が増加した際の対応に役立てられると考えています」
食中毒に関する検査の依頼は保健所からのほか、警察からのケースも。例えば、飲食物に何かが混入された疑いがあるという訴えを受け、警察から提供された試料の検査を行うこともあるという。
「数年に一度あるかないかですが、科捜研(科学捜査研究所)で対応できないものが持ち込まれることもあります。専門の知見を生かし、さまざまな角度から名古屋市民の衛生、安心・安全を守ることが当衛生研究所の役割です。一般的な食中毒の検査でも、正しく、できるだけ早く原因を特定することが感染拡大防止・再発予防には重要ですから、責任をもって取り組んでいます」と柴田部長は話す。
※ 2 参照リンク先:
https://www.city.nagoya.jp/kenkofukushi/page/0000099438.html
日立透過電子顕微鏡「HT7800」でSARS-CoV-2(新型コロナウイルス)を観察
通常の業務や研究活動における細菌やウイルスの検査・分析では、まず培養法やPCR法などの遺伝子検査が用いられる。
「例えば細菌による食中毒が疑われる場合、検体を培地に塗布して培養し、菌の発育状況から原因菌を推定します。それらの菌は生化学性状から菌種のあたりをつけ、最終的に遺伝子検査や血清学的診断によって菌種の同定や病原性因子の確認を行います。それが食品衛生法で定められた食中毒菌に該当すると確認できれば、その結果を根拠として保健所が行政処分を行うという流れになります」(小林さん)
さらに、電子顕微鏡による形態観察も行う。「原因不明の検体が来たときに、今はフィルムアレイなどで多くのウイルス・細菌の同時検出を行ったり、次世代シーケンサ(NGS)により網羅的にDNAを調べたりするのですが、やはり遺伝子を調べるだけでなく、目で見て形や大きさを確認することも重要です」と指摘する柴田部長。特に未知の細菌やウイルスの場合、形態による判別は不可欠だ。
「ノロウイルスもかつては小型球形ウイルスと呼ばれ、電子顕微鏡の写真で小さな丸い構造物が同様の症状を呈する複数の患者の検体に共通して見られるということから発見されました。気候変動などの影響で未知の、あるいは新興の感染症が拡大する可能性が高まっている中で、遺伝子だけでなく形態を見る経験を積むという意味でも電子顕微鏡での観察を行うことは欠かせないと考えています。そのため、庁舎の移転に合わせ、電子顕微鏡もそれまで使っていた旧型から新しいものに更新しました」
新型コロナのパンデミックでは毎日のように新型コロナウイルスの透過電子顕微鏡(TEM)像が報道され、その後もいろいろな感染症が出現すると、原因病原体の電顕写真が登場する。電子顕微鏡写真は、形態観察だけでなく、広報用としてのニーズも高いと柴田部長は話す。「食中毒予防の啓発活動を行う際には、必ず原因となる菌やウイルスの写真を添えますね。肉眼では見えない細菌やウイルスも、画像として目に見える形で示されるとインパクトがあり存在がリアルに感じられるという効果があります」
電子顕微鏡写真の撮影は小林さんが得意としている。「私はここに入所して初めて電子顕微鏡を使用しましたが、日立の電子顕微鏡、特にFlexSEMは初心者でも操作が簡単で使いやすく、非常に良い画像を撮影できるため助かっています。TEMに関しても、操作性の向上や市販のグリッドや試薬の活用などにより利用のハードルが下がって、電子顕微鏡の活用がより身近になったと感じました」
名古屋市衛生研究所内に掲示されているカンピロバクターなどの電子顕微鏡画像は小林さんが撮影したもの。これらの画像は市の普及啓発活動に活用されており、一部はメディアにも提供されている(※3)。形を見るためにも、ビジュアル素材としても役立つよう、できるだけ鮮明で見映えの良い写真を撮ることを小林さんは心がけているという。
※ 3 参照リンク先:
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/cbc/1475295?page=2
https://www.city.nagoya.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/014/945/r5innsyokutenn.pdf
走査電子顕微鏡「FlexSEM 1000」で撮像したカンピロバクター
こうしたさまざまな業務を行う上で柴田部長が重視していることは、「市民の健康を守る前提として、まず自分たちの健康を守ること、感染しないこと」だと話す。新庁舎では設備面での感染対策は充実させており、ソフト面の対策として検体などを扱う手順をしっかり確認するとともに、意識の向上を図っている。「先年のコロナ禍は、実験室内感染も微生物部内でのクラスターもなく乗り切れました。ただ、今後もどのような感染症が流行するかわかりませんので、気を引き締めておかねばならないと思っています」
もう一つの重要な注意点として、小林さんは「正しい結果を出すこと」を挙げる。「検査結果は隔離や行動制限などの根拠となるものですから、間違いは大きな問題につながりかねません。そのようなことが起きないよう常日頃から細心の注意を払っています」
特に近年、結果を早く出すために重宝されがちな遺伝子検査には、リスクも潜んでいると柴田部長は注意を促す。「PCR法はDNAを増幅することから、万一コンタミネーションがあると結果が大きく変わってしまう可能性があります。そのため、過去の数字と照らして不自然な増減があるなど、少しでもおかしいと感じることがあれば、確認し、やり直す、ということを徹底しています」
検査結果に疑いを持つという感覚は、経験を積んでいく中で養われる。日常の業務を通じた知見の蓄積とともに、普段とは違う状況を経験し、対応ノウハウを培うことも重要となる。
名古屋市では2026年9 ~ 10月にアジア競技大会とアジアパラ競技大会が行われる。アジア版オリンピックとも呼ばれ、両大会合わせると参加選手・役員数は2万人を超えることも予想されるこの大規模イベントに対応するため、柴田部長以下、微生物部の皆さんは、今から備えを講じている。
「限られた場所、限られた期間に多くの人が集まるマスギャザリングイベントでは、感染症や食中毒のリスクが通常時の数倍に跳ね上がると言われています。参加者間での集団発生はもちろん、市中への感染拡大も起きないよう、感染症はできるだけ早期に探知し、迅速に抑え込まなければなりません。名古屋市全体の協力のもとハード面の対策は講じていますので、私たちは人員体制などソフト面の準備を整えています」と柴田部長。こうしたイベントを研究員が経験を積む機会としても生かし、後進の育成に力を入れていきたいと話す。
小林さんも、今後の目標としてまずは大規模イベントを乗り切ることを挙げるとともに、さらにその先を見据えた抱負を語る。「新興感染症として、新型コロナウイルス感染症が世界的パンデミックを引き起こし、現在では感染症法上の5類感染症に位置付けられています。一方で、エムポックスの発生や、劇症型を含む溶連菌感染症、百日咳などの再興感染症の流行も見られ、感染症との戦いは今も続いています。次のパンデミックに対しても、前回の経験を生かしながら適切に対処できるよう、サーベイランス、患者の早期探知、正確かつ迅速な情報提供に向けて、今後も知見と技術の維持、向上に努めていきます」
編集後記
この度、念願の名古屋市衛生研究所柴田部長、小林様へのインタビューをお届けすることができ、心より感謝しております。柴田部長とは同研究所が瑞穂区にあった当時、お会いする機会があり、公衆衛生上の感染症対策では遺伝子検査と併行して、電顕観察が有用であることをご教示頂きました。昨今、地衛研では、装置の維持管理や後継者不足、財政上の問題などから装置更新の機会を得ることが難しくなっているケースが散見されますが、同研究所では、柴田部長や小林様の他、関係者の皆様のご尽力で電顕の利活用を進めて下さっています。最新型の電顕は操作性が大幅に改善され、焦点合わせや明るさ・コントラスト調整などは自動化されていますので、未経験の方でも簡単に使えますが、何を観察するのか、何が見えているのか、それがわかるには多少経験が必要です。またサンプリングはどうすればいいのか、戸惑うこともあります。そこで、我々は、サイエンス・ラボ横浜代表 宇田川悦子博士(JIHS客員研究員)が主催する「バイオ電顕のひろば」をサポートさせていただいています。困りごとの相談や情報交換などネットワークも広がっています。感染症のウイルスや細菌の実体を電顕で捉えることで発症の特定や病態解析に少しでも貢献できることを心より願っています。
(中澤英子)
(取材・記事:関 亜希子 撮影:秋山 由樹 取材日:2025年6月16日)
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